エル・カンターレに出会って
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『復活の法』 大川隆法著
第1章 生死を超える道
死後の世界は、そう簡単に信じてもらえるものではありませんし、仕組みとして、完全には証明ができないように創られていることも事実です。
霊的な世界が開かれた場合、よいものに導かれればよいのですが、そうでないものも入ってきやすいわけです。悪霊などが、いろいろ取り憑いてきたりして、それを直接に感じるようになり、声が聞こえはじめると、事実上、人間としての生存が不可能になり、ほとんど人生は終わりになります。
「守護霊が、『この世の人を導きたい』と思っても、ストレートに導くことができない」ということです。「この世の人の人生の大事な局面において、何か、ふとしたときに、思いつきのようなかたちでインスピレーションを降ろす」というようなやり方でしか導くことができず、「常時、疑問に答える」というかたちにはならないのです。
信ずるものの比率が、ぐっと下がってくると、「大きな力を持った宗教家などを地上に出し、新しい宗教を起こして広げる」ということをしています。
「この転生輪廻のシステム自体が、あるいは、この世という社会自体が、神々を作る機会になっている」と言われたならば、そのとおりなのです。
その意味で、「大勢の人が生まれ変わってきているから、優れた人も、たくさん出てきている。今回の人生を契機として、神々、仏教的には菩薩・如来と言われるような人が出るチャンスは非常に広がっている。それと同時に、地獄界もまた、かなり人口を供給されている」ということが現実です。
その地獄霊の供給を止めるのが幸福の科学の仕事なのです。
「この世的には、地位があったり、知識があったり、見識があったりしたとしても、基本的な、人間としての生き方や人生観、心のあり方が間違っていてはいけないのだ」ということを教えつづけなければいけません。
この迷っている人たちを救わなければいけません。
幸福の科学の真理を学んでいる人は、死んで霊になったらそれほど痛いわけもないし、血も出るわけがないと思うでしょう。そういう悟りを持っている人にはこのような世界が展開してきます。
しかし、「この肉体が自分だ」と百パーセント信じている人の場合は、交通事故ではねられ死んだ場合。そのときの、大けがをして血が流れている状態の肉体を「自分だ」と百パーセント思ってしまうのです。
そういう人に、「いまのあなたは霊体であって肉体ではない。肉体のほうは、焼かれて、もうなくなっているのだ」と言っても、そのような状態で死んだ人の場合は、自分の葬儀の様子さえ、まともに見ていないため、「痛い、痛い、痛い」と言って、霊体となっても血を流して交通事故のまま苦しんでいるのです。
病気や事故で死んだ人は、死後も、その状態で止まっていて、死んで何年もたっているのに、まだ重体だったりします。激しい痛みが襲ってくる状態などが続いているのです。
人間の霊体には、まず、肉体をオーバーラップするかたち、二重に重なるかたちで、「幽体」というものがあります。これは、肉体とほとんどそっくりのかたちをした霊体です。これが外側にあり、そのなかが何重かの構造になっていて、奥のほうへ行くほど、だんだんに、高級な、精妙な魂の部分になっているのです。
肉体が亡くなっても、肉体的な痛みを長く感じつづける人は、幽体という、肉体そっくりの部分の自己意識を超えられないのです。
「肉体側自分」と思っているため、彼らには死後も苦しみが続いています。
その意味で、「家族が仏法真理を知っている」ということは大きいのです。亡くなった人は、やはり、何といっても、すぐに家族を頼ってきます。そのため、「家族が仏法真理を学んで行じている」ということは、彼らにとって、一種の家庭教師がいるようなものであり、少しずつ真理が伝わってくるので、ありがたいのです。
先祖供養には、やはり真理の光が必要です。それなくして、「とにかく、死んだ家族の霊を引き剥がして追い出したら、それで自分は幸福になる」という考えだけでは済まないのです。生きているいる人のほうが真理を知っていないと、亡くなった人を最終的に救えないのです。
正しい心のあり方を悟って行じ、ある程度、光の出てきた人が、読経したりして供養してあげると、効き目がありますが、本人が、暗い心を持ち、地獄霊に憑依されるようなレベルで、いつも先祖供養をしていると、ほんとうに、先祖でない霊までも来るのです。
拒食症や過食症も、ほとんど霊障と見て間違いないと思います。来ているものは「餓鬼霊」です。
生きている人に先祖と同じ特徴(酒乱や色情面の愛憎劇)が出てきたら、それは、「先祖の霊が来ている」ということです。
それを取るには、生きている人間のほうが、真理を学び、それを手がかりにして、人間としての正しいあり方、正しく心を探求し、人生を立て直して生きていくことが必要です。
そういうことをしながら、亡くなった人に対し、幸福の科学の経文を読誦するなどして供養をすることは可能です。
最初は一人では危険なので、できれば、幸福の科学の精舎や支部など、導師がいる所、あるいは、光の仲間がたくさん集まっている所で、一緒に供養したほうがよいでしょう。
霊的な真相を知っている人が供養しないと、やはり駄目です。法力がないと救えません。そのために修行するのです。
宗教の専門家は、修行を積むことによって、霊的な力が出てきます。言葉に力が出てきて、言魂が出ます。それから、悪しき霊たちを、改心させたり、生きている人から切り離したりする力が出てきます。そのために修行しているのです。