変わらないもの、病気
環境が変われば何かが変わるよ、という大人たちの言葉を信じすぎた私が馬鹿だったのかもしれない。治るはずがないのに、健常者のような生活ができると勘違いしていた。
一人暮らしを始めて、大学に入って、確かに環境は一変した。学問としての歴史に触れ、自分の浅はかな考えと無知に気づき、ショックを受ける日々。でも、充実感を得られた。尊敬できる人に出会った。良くも悪くも、大人の世界を知った。楽しかった。
でも、病状は変わらなかった。初診の際持っていった問診票には「減薬を目指したいです」と書いたのに、病状を話すと増やすことを勧められた。結果、インチュニブが2tに。ADHDの薬。効いているかわからないのに増やすのは腑に落ちなかったけど、素直に聞き入れた。
ADHDによる抑うつ、自律神経失調症により全日制高校を諦め、高2で通信制高校へと転学した。検査で発覚するまで、なぜ自分は周りと同じように生活できないのか、なぜこんなふうになってしまったのか、ずっと考えていた。わからなかった。私が人生で頑張らなかったことなんて、何一つなかったのに。当たり前だ。頭の中、出るべき信号が出されていないのに頑張ったって、空回りするだけだった。
発達障害は工夫次第で生活しやすくはなるが、治りはしない。やはりADHDが原因の困り事が多いため、それを減らしていこうと主治医や障害コーディネーターさんから言われた。具体的には、脳内の多動、時間感覚が鈍い、集中できない、などなど。家では多動もある。「モーターで動かされている」かのように動き回ってしまう。外出中は多動を抑える努力をしているので、精神を削がれる。
こういった症状を抑えるために、コンサータという薬の服用を決めた。ADHDの治療薬には約3種類あるのだが、先ほどのインチュニブともう1つのアトモキセチンは増やしても効果がなかった。そして実はこのコンサータ、依存性が生じないよう工夫されているとはいえ覚せい剤成分が入っている。そのため、処方には審査が必要だ。面倒臭かったけど、もうこれが最後の砦。20歳未満なので母親付き添いのもと、母子手帳や小中学校時代の通信簿、連絡帳を持参し診察に臨んだ。通信簿の所見欄は「優等生そのもの」という感じだったが、連絡帳にはプールカード忘れの記述が何回もあった。主治医に「娘さん、普段変なテンションのときはありますか」と訊かれた母親が「あります」と食い気味に答えたのには少し驚いた。母親の前ではまともを装っているつもりだったが、普通にばれていた。こわい。
コンサータは私に合っていた。朝飲むと、生活が円滑に進む。空になったペットボトルをすぐ洗える、少しずつでも課題に取り掛かれる、本を読める。私にとっては感動の連続。定型の人ってこんな感じかな?疲れながらも、活動できることが多くなった。もちろんコンサータは万能薬じゃない。脳内から無駄な思考が消え、余ったキャパでできることが増えるという感じだ。
しかし、梅雨の時期は抑うつが酷くなってコンサータを飲んでも意味が無い。使いようによっては病状が悪化する。躁鬱。それが今回、あまりにも酷いのもあって、入院という決断に至った。躁のときは、何でもやってやる!という気持ちになって、できるかわからないことを引き受けてしまう。逆に鬱のときはすべて終わらせたくなってしまう。サークルも大学も。寝ていることしかできない。予定キャンセルの連絡を入れるので精一杯。躁鬱混合状態のときは泣きながら母親に電話したり、よくわからないツイートを連投したりしてしまう。
まとめると。あまりの環境の変化と、あまりの病状の変わらなさに、疲れて、情けなくて、心がしなしなになってしまった。入院は多分1ヶ月くらい。上手な休み方と、無理なく自分のやりたいことをやる方法を学びたい。後期からはまた、気持ちを新たに。ゆっくり、ゆっくり。
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