年末

昨年末に書いたまま放置していた文章です↓

年末に眠剤と抗てんかん薬を過剰服薬して、入院した。いわゆるODというのを、初めてちゃんと(?)やってしまった。夜中、とにかく自分に腹が立っていて、大量の診療代の請求書や処方箋を見て「なんで自分ばっかりこんなこと」と思った。毎日薬を十錠以上飲んで、十五歳から二週間に一度のペースで通院して、それでも良くならなくて。前日、カッターの刃が古くなっていてうまいこと腕を切れなかったのもあった。刃の交換も面倒くさかった。だったらもういっその事、とレンドルミン一ヶ月分を見つめて、しばらく考えた末全ての錠剤をPTPシートから取り出した。どうなるかはあまり考えていなくて、今思えば躁状態だったのだと思う。お酒と一緒に飲んだら死ねるかな、と思ったが、別に死んでも死ななくてもよかったので水にした。半分飲み込んだところでコップの水が無くなったので足しに行き、もう半分も飲んだ。調子に乗ってデパケンもある分全部飲もうとして、またコップの水が無くなって、足さなきゃ、と思ったのを最後に、記憶が無い。なんか眠くなってきた、とかも無い。


朧気に、救急隊員の人の「お母さんも一緒に乗っててください」という声と救急車の車内が記憶に残っている。ドラマとかでよくある、目が覚めたら病院の白い天井が、とかも無い。随分長いこと意識が無く、その間にレントゲン検査や、アームカットした左手の手当てや点滴がされていた。目覚めてからは、自分が救急搬送されたらしい、という事実を飲み込むための時間、という感じだった。正確には、目は覚めたもののふわふわしたままで、けどとにかく病院食のハンバーグがとてつもなく不味かったのは記憶している。


夜中になって、ああ私は色んな人に迷惑と心配をかけたな、と思い始めた。恋人からも連絡が来て、私には勿体ないくらいの優しさが心にしみた。母親に、お母さんと一緒に寝たい、と言ったら少し困っていたけど、隣に寝てくれた。死んでもいいと思ってたんだろ、と言われた。よく分からなかったけど、私はうぅぅと泣き出してしまった。母親は、はひめがいなくなったら、お母さんの世界は白黒だよ。と言った。勝手に産んだのは私だけど、我儘言うけど死なないで。と言った。私は、お母さんが死んだら死ぬ、と言った。母親はいつも優しい。正反対の私に、これ以上無いほど「正解」の言葉をかけてくれる。なのになんで、私はこんななんだろう。自立したいと思いつつ結局、私はまだ甘えているのだと思った。

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