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似たもの夫婦

「コロツケや~」と父は嬉しくなさそうに言う。「コロッケ」と言わずに「コロツケ」とわざと『ッ』を『ツ』にして呼ぶ。
コロッケのような手間暇のかかる料理を作ってこの言われよう。わたしなら一発で作る気が失せ、もう二度と作らんわい!となるところだけど、母は父の嫌味にもめげず、コロッケを作ってくれた。母の作るコロッケが大好きなわたしのために。
母の作るコロッケは素朴そのもので、ひき肉と玉ねぎを炒めてシンプルに塩コショウで味付けしたものに、ふかしてつぶしたジャガイモを入れて丸めたもの。細目のパン粉をつけてカラッと揚げられたコロッケが、わたしはデパートやお肉屋さんのコロッケより好きだった。

就職を機に家を出てからも、帰省するとよくコロッケを作ってくれた。
「やっぱりお母さんの作るコロッケが一番やな」食べるたびに何度そう言ったか分からない。お世辞でも何でもなく、本当にそう思っていた。

母が特別に料理上手だったというわけではない。実際母の作る料理にも苦手なものはいろいろあった。ぬたの類や薄味の野菜の煮物などがテーブルに並んでいると内心「これかぁ…」と思ったものだ。一時期母が凝っていたドクダミやコンフリ―の葉の天ぷらにはうんざりした。

結婚して自分も料理をするようになると、作った料理にケチをつけるなんてとんでもない、と思うようになった。実家にいたころはたまに文句を言っていたから今でも母に申し訳ないと思う。さいわいわたしの夫は何を作っても「おいしい」と言ってくれる人だ。

また、母はよく「わたしが死ぬときにお父さんが残ってたら連れて行くわ。あんたら、ややこしいやろ」と言っていた。確かに亭主関白で家のことは何もしないお父さんが残ったらめんどくさいかもなぁ、なんて妹と3人で話していた。しかし実際のところ母は父より長生きするつもりでいたと思う。

しかし人生は分からない。母は父よりずっと早く逝くことになった。父と母と妹、3人で北海道旅行に行った帰りの空港で気分が悪くなり、その後家に戻っても体調が回復せず病院に行くと、末期がんであることが分かった。手術をして抗がん剤治療を受ける母はみるみる弱っていった。一通りの治療を終え、とりあえず退院することとなり、家に戻った母は思いのほか元気になったようだった。

ある時わたしが帰省すると母はコロッケを作ってくれていた。体調も万全ではないのにわたしの好物を作ってくれていたのだ。
「あんたに作ってあげるのもこれが最後になるかもなぁ」
母はこともなげに言ったが、ありがたくて、ありがたくて、わたしは涙を隠すことができなかった。

そして何もしない夫代表だった父の変わりようにも驚いた。母が元気だったころ、父は「一人暮らししてたから、やろうと思えば何でもできる」と言っていたけど、わたしたちは大いにその言葉を怪しんでいた。しかしその言葉は本当だった。体調の優れない母に代わって、妹と二人三脚で家事を頑張る父を見てわたしは驚いた。当時は珍しかった介護休暇を取り、通院の付き添いや掃除・洗濯などの家事をこなす父を見て、なんだか夫婦の愛を見た気がした。それまでの父は家庭より自分のことを優先するタイプの人だったから、母が倒れてもたいしたことはしないだろうと思っていたのに、こんなに母に尽くすなんて!

夫婦にしか分からない絆、いやきっと母さえも父がこんなに尽くしてくれるとは思っていなかったに違いない。

そして病院で母の余命宣告を受けた日。わたしは初めて父の涙を見た。

父が冷たいと時折こぼしていた母。せめて人生の最後に夫の愛を感じられてよかったと心から思う。

母の死後、父は再婚した。そしてまた何もしない人になった。娘として色々思うところはあるけれど、夫婦のことは夫婦にしか分からない。勝手に継母の気持ちを慮ることはしないことにしている。でもたまにはゆっくりしてもらおうと、父を我が家に招いて継母を一人にしてあげるのがせめてものわたしの気遣いだ。

父が我が家にくるときは、必ず父の好きな牛肉を使った料理を作る。実は母が亡くなるまで、わたしは父がこんなに牛肉が好きだとは知らなかった。母はよく煮魚を作っていたから、煮魚が父の好物だと思っていたのだ。

そのことを父に言うと「いや、僕が好きだったわけやない。あの人自分が好きやったんやろ」と言う。今となっては真実は分からないけど、案外似た者夫婦だったのかもしれない。

#創作大賞2024 #エッセイ部門

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