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小説 日輪 3

 診察のあと、説明室で抗癌剤のオリエンテーションがあった。それは主に副作用のことであり、渡されたパンフレット通りに細かく説明された。薬剤師は女性が多いと勝手に想像していたのだが、佐藤と名乗るその薬剤師は眼鏡をかけた若い男だった。終始穏やかな表情で、根気よく丁寧に対応してくれる。しかし、どうしても不安や恐怖を煽る内容なので、途中から集中出来なくなった。

 ーーもういい、もうわかったから充分だ。それが起こるかどうかは実際にやってみないとわからないんだろう?

 紗季は頷きながら真剣に説明を聞いている。その姿を見て倒れたりしないだろうかと心配になってきた。

 説明が終わり薬剤師が席を離れると、今度は白衣を着た看護師が部屋に入ってきた。黒髪を後ろに一つに束ねた40代後半くらいの女性で、恰幅が良く独特の存在感を放っていた。「宜しくお願いします」と大声で言い、マスクをしていてもわかるほどの満面の笑みを浮かべて椅子に腰掛けた。そして外来での治療の流れと日常生活上の注意点ついて説明を始めた。

 紗季は不安に満ちた眼差しを看護師に向けている。それでも泣いたり取り乱したりはしなかった。日常生活について説明されると、これから癌治療が始まるのだという事実が急激に現実味を帯びてくる。

「何か心配なことがあれば、言ってくださいね。お話を聞きますので。ソーシャルワーカーもいますし、遠慮なさらないで下さいね」と看護師は言った。看護師というより下町の食堂のお母さんみたいだった。そんなことを言われて素直に相談する患者がいるのだろうかと思う。しかし紗季は目を潤ませて、鼻をすすりながら「ありがとうございます」と言った。その表情を見て、喉から胸にかけて鈍い痛みが走り抜ける。


 説明がひと通り終わったので、一階の総合受付へ戻り、自動支払い機で会計を済ませた。結局5時間ほど病院にいたことになる。毎回これでは抗癌剤なんかしなくたって疲弊してしまう。

 駐車場に向かって二人で肩を並べて歩いた。灰色のアスファルトに薄日が差していて、僕達の足もとには長い影が伸びている。太陽の位置はよくわからないが、影の方向からして西はこっちなのだなとぼんやり思った。僕はどこへ行っても太陽を見ては東西南北を頭の中に思い描く癖があった。でもなんのためにそうするのか自分でもわからなかった。

「大丈夫か。疲れただろう」

「大丈夫」
 紗季は青ざめた顔で頷いた。

 車に乗り込みエンジンをかける。振動が車全体を包み込んで、体に伝わってくる。その時隣からすすり泣く声が聞こえた。紗季が両手で顔を覆いながら泣いている。そのうちに、しゃくりあげながら激しく声を出した。左手を伸ばして紗季の頭を抱いた。なんて声をかければいいのかわからない。癌は少しだけ大きいけれども、他の臓器に転移はしていないのだから、きちんと治療さえすれば治るはずなのだ。少なくとも今すぐに死んでしまうようなことはありえない。そのように説明された気がする。いや、されたのだ。頭の中が情報でいっぱいになり、思考でそれらを整理するのが難しくなっていた。自分ですらそうなのだから、紗季はもうとっくに限界を超えているのだろう。自分達がすがりつこうとしている治療は、負担が大きいわりにはひどく頼りない希望のように思えた。


 どれくらいそうしていたのかわからない。時計に目を向けることも忘れていた。紗季が顔をあげてバッグからハンカチを取り出す。少し落ち着きを取り戻したようだった。

「大丈夫か」と声をかける。

 紗季は何も答えなかった。

 気休めにしかならないとわかっていても、きっと大丈夫だよとでも言えばいいのだろうか。

「無理しなくていいからな。家事は俺が全部やるから。仕事もしばらく定時で帰れるように上司に相談してあるし、治療にも付き添うよ」

「全然料理出来ないくせに。放っておくと納豆ご飯しか食べないくせに」

 その言葉にそれほど悪意は感じられなかった。

「もうこんな時間か。昼を食べてないよな。食べられそうか?それとも家に帰る?」

 紗季は小声で「食べて帰る」とつぶやいた。

 16時という中途半端な時間のせいで、営業している店は少なかった。仕方なく家の近所のファミリーレストランへと足を運んだ。休日は家族連れでごった返しているこの店も、平日のこの時間となると随分空いている。店の中が静かで少しだけほっとした。

 メニューに目を通しても、一向に食べたいものが見つからなかった。僕はもともと食に関心がなく、食べるものなんて腹が満たされさえすれば何でも構わないと考えるタイプだった。社会人になってからもランニングをする習慣があったから、35歳になる現在まで長身痩躯を絵に書いたような体型をしていた。一方紗季は甘いものに目がなく、気を抜くとすぐに太ってしまう体質のようだ。

 二人とも何を頼めばいいのかわからず、サラダとケーキだけを注文した。

「ドリンクバーで飲み物取ってくるけど、何がいい?アイスティー?」

 紗季は小さく頷いた。

 テーブルで向かい合って食事をしていても、全く会話はなかった。お互いがお互いの未来について考えを巡らせ、頭の中を整理しているのだ。

「とりあえず、……」紗季が口を開く。

「来週の抗癌剤治療は、お母さんと一緒に行こうと思う。初回は具合が悪くなる人もいるから、一応家族と来たほうがいいって看護師さんも言ってたし。それからは私一人で通うから」

 虚無に近い顔色をしていて、魂が抜け落ちたように目に生気がなかった。

「お義母さん、仕事大丈夫なのか?」

「もうパートだから、休みを取ってくれるって」

「ちょうど出張で本当にごめん。その次の抗癌剤のときは付き添うから」

 紗季の実家は歩いて10分ほどの距離にある。母親との関係は良好で、よく互いの家を行き来しているようだった。父親は口数が少なく、何を考えているのかよくわからない人間だ。紗季とは仲が悪いわけではないが、積極的に交流しているようには見えなかった。

「仕事、辞めようかと思ってる。それでいい?休職しようかと思ってたけど、治療が長引きそうだし」

「その方がいいよ。しばらくゆっくりしたほうがいい」

「あと…ネットでウイッグを調べてみようと思う」

 紗季は右手でアイスティーのストローを動かした。カランという乾いた音を立ててコップの中の氷が動いていた。たまに飲むウイスキーに浮かぶ氷の音と、コップの氷の音はどうしてこんなにも違うのかとぼんやり思う。

「どんな髪型にしよう」と震えた声を出した。その目は潤んでいたが、涙は落ちなかった。

「今と同じでいいんじゃないか?似合ってると思うから……」

 そのあと紗季は何も言わなかった。僕も黙っていた。サラダはひどくざらざらしていて、味がほとんどしなかった。無理やりコーヒーで流し込んだとき、なぜこんな苦いものを飲んでいるんだろうと頭の片隅で思った。





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