小説 日輪 9
紗季の最後の抗癌剤投与が終わり、翌週には嘔気も落ち着いてきた。週末、僕は午前中食料の買い出しにスーパーへ向かった。
途中の線路にかかる陸橋からは市街地が見渡せる。木造住宅と商業施設がひしめく街並みに背の高いビルがぽつぽつと点在していた。橋の先にある交差点の信号が赤に変わったため、車の流れはそこで停まった。助手席側の窓から外の景色を眺めると、県営住宅の屋上に人影が見えた。どうしてあんなところに人が立っているんだろう。不審に思いよく目を凝らしてみると、それは自分だった。遠くを見つめて一人で佇んでいる。
ーーああ、あんなところに俺がいる。これから飛び降りでもしそうじゃないか。困ったな。
スーパーで食料や日常品を見てまわり、ほとんど無意識にウイスキーの大瓶を買い物かごに放り込んだ。買い物を済ませ家に着くと12時になっていた。
昼食後にさっそく酒を飲んだ。普段はあまり飲まないのだが、飲むとたちまち気分が高揚して嫌な事を忘れられるので、魔が差してしまった。飲酒が習慣化してしまう人間の気持ちはよくわかる。そしてアルコール依存症になってしまう気持ちもその時は少しだけ理解出来た。台所で酒を飲みながら昼食後の皿洗いをしていると、紗季が近寄ってきて、ウイスキーの瓶を見て顔をしかめた。
「お酒を飲むなんて珍しいね」
「洗い物はやるよ。夕飯も俺が作るから。いくら俺だって納豆ご飯とふりかけご飯ばっかり食べるわけじゃないんだ。冷たいうどんなら食べられるだろう?」
「いいよ。私が作るから」
「大丈夫。お前は座ってろよ」
心配そうな目つきをして紗季は僕の顔を覗き込んだ。
「俺さあ、時々ドッペルゲンガーが見えるんだ」
「ドッペルゲンガー?」
「そう。ドッペルゲンガー。自分そっくりのやつ。さっきも見えた。父親が中学生のとき亡くなったんだけど、葬式の時に見たのが最初だった気がする。何年かに一回現れるんだ。これは何なんだろうなあ。俺をどこかに連れて行くつもりなのかな。だから俺はそいつに祈ったよ。俺を連れて行くなら、そのかわりにお前を長生きさせてやってくれって。病気を治してやってくれって」
紗季は僕を初めて見るような、不安そうな表情をした。
「どうしたの?圭がそんな事を言うの初めてじゃない?」
「そうだっけ?なんていうのかな……俺は今まで何もかもがどうでも良くて、自分の人生を他人事のように思ってた。いつまでたっても心に根っこが生えないんだ。根っこが生えなければ発芽もしない。そんなんだからドッペルゲンガーが現れるんだろう」
紗季は僕を見つめて黙っていた。
「でもお前と結婚して、散々ふりまわされていじめられて、生きてることを実感してるよ。笑えるよな。RPGゲームみたいだよ」
無論自分でも何を言っているのかわからなかった。
「何言ってるの?酔っぱらってるんでしょう?ほら、私がやるから」
紗季は苦笑を浮かべながら、僕の腕にそっと触れた。その時、左手に持っていた大皿が勢い良くシンクに落ちて、ガシャンという鋭い音を鳴らし砕け散った。耳が痛い。紗季が慌ててシンクの中を覗き込んだ。僕達は何も言わずしばらくじっと皿を見つめていた。
僕の目から涙が落ちた。
紗季がぎょっとしたように見上げる。
「圭?どうしたの?」
これは一体なんの涙なのか自分でも全くわからなかった。誰かの前で泣くなんていつぶりだろう。小学校低学年の頃に友達と相撲を取って負けた時以来だろうか。父親の葬式の時でも泣かなかったのに。
「大丈夫だよ」
紗季はそう言って体を寄せ、僕の左腕を両手でぎゅっと掴んだ。
「大丈夫だよ。大丈夫だから」
手の力のわりにはずいぶん頼りない、今にも泣き出しそうな、困り果てた声だった。
ーー大丈夫なわけないだろう。一番辛いのはお前なんだよ。俺がしっかりしなきゃいけないんだよ。
紗季の両目から涙がはらはらと落ちた。久しぶりに抱きしめた妻の体はひとまわり小さくなっていて、とても悲しくなった。
ふと気がつくと僕はリビングの床で仰向けで寝ていた。頭痛がして体の節々が痛い。あのあといたたまれない気持ちになり、ウイスキーをあおって眠り込んでしまったのだろう。隣をみると紗季まで床に横たわり、静かな寝息をたてていた。
「紗季、起きろ」
彼女を揺すって起こす。
「あれ、私まで寝ちゃった?」
紗季は目をこすって気怠そうに身を起こした。
「揺すっても叩いても、鼻をつまんでも起きないんだもの。なんか、スーパーで買い物してるみたいな寝言を言ってたよ」
紗季が声を出して笑った。久しぶりに聞く、くすぐったい声だなと思う。
「このまま何も考えずに、二人で永遠にゴロゴロ寝ていられたらいいのにな」と僕は言った。喋るたびに頭に響いて、飲みすぎたことを後悔する。
「そうだね」
しばらく二人で床に寝転がり、なんでもないことを話した。
「私、海が見たいなあ。抗癌剤が終わったし、とりあえずひとやま越えたよね。手術が終わったら海に行こうよ。よく行ったよね」
懐かしそうに目を細め、微笑みながら紗季は僕の方へ体を向けた。
「うん。わかった。行こう」
僕達は床に寝転がったまま手を繋いで、未来のことを色々と話した。手術の前に買い物に出掛けようとか、ドライブに行こうだとか、そんなたわいのないことをずっと話し合っていた。
その時、ものすごく淡くて薄いのだが、無限に拡がる暗闇のなかに一筋の光が見えたような気がした。どんなに足元がおぼつかなくても、その光に向かって歩いていけば、いつかは太陽が見えるのかもしれないと思った。本当になんとなくだけどそう思えた。もしかしたら、暗闇ばかりを見つめすぎて希望の光に気がつかなかっただけなのかもしれない。いずれにしても、二人で手を繋げばきっと乗り越えていけると、おぼろげながらもその時思えたのだった。