【短編小説】【終末】タイムアップ!/Time’s up!
なんてこったい。もうこんな時間だ。君はどうしているだろう。
僕は風呂も飯もままならない。部屋にテレビがないせいで気づくのが遅れた。時計なんかは置いてない。ましてやそれと教えてくれる人なんかもいない。君も遠くだ。あーあ、このままじゃ間に合わないや。
せめて何か、夕飯に美味しいものでも買って来ようとアパートを飛び出せば夜空は高く、輝く星が明るかった。空なんて久しぶりだ。もっとよく見とけばよかったと思いながら、僕は自転車をこぎ出した。
スーパーはまだ開いていて安心した。暗い通りに煌々と光を放っている。
陳列棚には色とりどりのプラスチックに入れられた総菜や弁当が何気なく並んでいた。値引きシールが重なり合って貼られている。どれもこれも食べたいような気がするし、でもどれを選んでも後悔するだろう。スーパーに来るといつもそう思う。せっかくだし何か豪勢なものでも食べようかと思ったが決めきらない。とりあえず、ミカンの一袋でも。
結局、考えるのをやめてレトルトのスパゲッティソースを買うことにした。クリーミーボロネーゼ。使い切ってないパスタがまだ家にあることを思い出したのだ。迷っている時間ももったいない。それに、味を知らないスーパーの弁当とかを買って外れだったら嫌だし。知ってる味を選んだ。僕はこういう時に挑戦はしない。君は何を食べているのだろう。そう思いつつ会計に向う。他にお客はいないようだ。
レジ打ちのお兄さんは妙におどおどしている。もうこんな状況だ。「帰ってもいいんじゃないですか」と僕が言うと、「そうですよね。はい。そうします。」震える声でそう答えて僕のレジ打ちを済ませると、そそくさとどこかへ行った。エコバッグに商品を詰めながら、彼の足取りを見守った。不安げな表情だったのが歩き出すころには泣き出しそうな顔になっていて心配だ。強く生きてほしいなと思う。
アパートに戻ってふと見上げれば、いかにも星が明るかった。飛行機のようなゴーと低い音が夜空を覆う。
何せ時間がない。そう、時間がないので、電気ポットで沸かした湯を鍋に移し、そこにパスタを入れるとともに、ソースの袋も入れて温めてしまおう。コンロは一口だし、わざわざソースとパスタを別で温めるほどの時間も上品さも今回はないということで。僕はスツールに腰かけ、僕のために夕食を用意してくれるほーろーの鍋を見守った。
座って一息つくと、腿に痛みが生じていることに気づいた。スーパーの往復ごときで、だ。思えば最近運動なんてしてなかったんだ。それどころか外にもろくに出ていなかった。そのせいか今日の外の空気が新鮮だ。目を瞑れば久々に自転車で風を切った感覚がよみがえる。晩秋の夜風は冷たい。数年前、君に最後にあった日もちょうど同じ季節で寒い日だった。立川に集合する予定で、僕は遅れていった。その時には、今日こんな日を迎えるなんてみじんも想像していなかった。
その日が寒かったことのほかに覚えてるのは、君が言った一言だ。「変らないな」と君は言った。どういう会話の末の言葉だったのかはもはやあやふやだけど、君は確かにそういった。呆れたような、しかし安心したような口調を君はしていた。その声を聴いて僕はうれしくなった。それはもう、今でも覚えているほどに。
だけど、もし君が「変わったね」と言ったとしても、僕は嬉しかったと思う。僕が実際に変わったか、変わってないかはある意味どうでもよかった。君が僕のことを覚えてくれたことそして、時を隔てて、僕のことを再び見てくれたこと、それが「変わってない/変わったな」という言葉に集約されている気がした。
それで僕は嬉しかった。今も嬉しい。
それも遠い昔のことなんだと思うと、不思議な感じがする。天井がぐっと遠くなって遠近感が狂ったような感じだ。
今なら、次々に色眼鏡をかけ替えてしまう僕らの移り気な性向のせいで、過去に起こったことなんて大したことじゃなかったなとか思いかねない。誰かの言った言葉なんて吹けば飛ぶような軽いものかもしれない。けど、当時の僕にとってそれは大したことだった。その事実は今の僕たちがどうであろうと変わらない。過去は変えられない。そして君はいい人だった。いい人の君はどんな偏光で見てもいい人だ。
時間がないのに。その時間を回想に使ってよかったのだろうか。その間に僕は何と三つもミカンを平らげた。無意識下でも剥いて食べられるミカンという食べ物はすごい。その間にちょうどスパゲッティが丁度いいくらいに茹で上がってくれそうだ。早く食べよう。
今は切羽詰まっている感じだけど、どうせ茹で上がるのを待つだけの何にもならない時間だったから、回想に捧げたのも無駄ではないとおもっている。
そう、今日くらいは、昔を思い返したっていいんじゃないだろうか。結局僕に考えられるのは過去か未来のどちらかで、現在なんてものは捉えどころがない。未来の見えない夜は過去を抱きしめるのがお決まりなのだ。
ボロネーゼは可もなく不可もなくといった味で、ということはなかなか美味しいということなのだろう。まずまずだ。けして不味いという意味ではないよ。
だがまあ、何を選んでも後悔するだろうと思っていたのだが、全然そんなことはなかった、ということはなかった。日本人としては、米とか最後にもう一度食べときたかったなとか思った。でも時間がないから無理。残念。
よく考えると、最後にもう一度しとけばよかったなと思うことはすでに経験したことに限るから、別に今更しなくてもいいのだ。記憶の中を掘り返せば、おにぎりの味も覚えている。
同じ理由で最後に君に会う必要もない。
そう思うとなぜだか知らんがため息が出てしまった。
あーあ、もうあっという間だ。まったく、時間がない。皿も洗えない。ミカンだって一袋も食べきれるわけがない。ゴミだってそろそろ出さないと思ってたのに。そんなのも無用の心配か。風呂も入りたかった。でも〝あれ〟が悠長に僕を待ってくれるわけもないということは僕だって承知している。だんだん迫って来る光と音で、いよいよ近づいていることがわかる。ベランダに出ずともわかる。まあせっかくだし出るけど。
すごい音がしている。遠くのサイレンも混じっている。君も聞いているだろうか。ごく早朝の朝日みたいな光が空にあふれているが、朝日よりずっと硬質だ。悲しいことに朝日について僕の造詣はかなり深いのだ。
本当にこんなんで良いのかな。世の中の人はどうしてるんだろ。時に君はどうしてるんだろ。僕は大してドラマチックでもなく、時間に追われて取り敢えず飯だけ食べて、後悔のない人生を祈ってみたりする。
でも夜空がたった一つの星のせいで隅々まで照らされていて、この惑星もだいぶ変わってしまいそうだ。
ああ、これが正解だったのかは分からないけど、やれた事もやり切れなかった事も、全部そのままごちゃまぜで、この隕石が全部潰してくれると訊いて、僕はなんだか安心してしまったのだ。もちろん君はいつかの素敵なままで。
さようなら。
どうか、またいつか。
廻り回って、どこかで。
勿論そんなのがもしあったらだけど。
えーと、なんだか、思ったより衝突まで時間あるな……
〈終末〉