"夢"とはなんぞや
子供の頃、まだ未来に可能性がある(とみられる)年代にはつきものであるが、誰しもが「将来の夢は何か」という問いかけを最低でも一度は投げかけられているのではないだろうか。
この「夢」と言うのは概ね、社会人としての生業を指すことが一般的であるが、幼い頃からその展望を描ける人間はごくわずかだろうし、変わらずに持ち続けたり、あるいは希望の仕事に就くことが出来る可能性すらそう高くないのかもしれないと思う。
何かの目標に向かって進むことが出来るのは立派なことだと思うが、そもそも人は必ずしも夢とやらを追う必要はあるのだろうか。
人によっては輝かしい未来への道標になるだろうが、それが逆効果である場合も少なくはないのではないかと思ったりする。現に自分は子供の頃から「夢」なんてものは特になかったし、現在もご覧の通り何者でもない。
人生とは主に、労働力となることを指している。
学校という社会訓練を修了した者は、何かしらの仕事で生計を立て、国に税金を納めることを半ば義務付けられている。そうした仕組みの中に置くためには、幼い内から多少でも自発的に労働を是とする意識を植え付けねばならない。
そうしなければ飢えて死んでしまうのみで、これでは本当に何の為の人生なのかが分からなくなってしまうだろうからだと思うが、国のために維持費を支払続ける生活を果たして"夢"などと呼んで良いものだろうかとたまに思う。
自分の親戚にも無職の引きこもりがいる。
若い頃は彼を見るたびに不憫というか、何故働かず年老いた母親の稼ぎでのうのうと暮らして平然としていられるのか不思議に思ったりした。だが、自分も仕事を続けて、その中でうまくいかず何度も何度も仕事を辞めたいと思うようなことに直面したりすると、働くことはそれほど良いことなのかと思うようになったりして、一層複雑な心境を抱えることになった。
彼も年若い頃は何かの"夢"に向かってギラギラと目を輝かせていた時期があったのだろうか。何者かになりたかったのだろうか。
今更直接問うには残酷すぎるのでやめておくが、彼を家に閉じ込めた原因は、彼自身の資質以外にも何かしらあるのだろう。
自分も許されるなら、ただひたすら怠惰に生きたいと思う。
自分の場合は幸か不幸か家庭を持っているので、自分が職務を放棄してしまうと、彼らの生活が脅かされることになる。なのでたとえ辛くとも何とか日銭を稼ぎたいと思うのだが、しなくて良いなら働きたくない。
仕事が楽しいと思える人は相当なラッキーだと思うが、世の中はそんな綺麗事だけでは回っていかないのも事実だと思う。どこかのゴミだって誰かが回収しなければならないし、トイレも掃除しなければたちまち環境問題に発展する。
他人の子供の面倒を見る人、年寄りの世話をする人、倉庫で荷物を動かす人、それらを運ぶ人。これらを夢と呼べるかというとなかなか難しい所だ。
やはり仕事は夢と表現するには無理があると思うが、一部の選ばれた人たち、そのために人一倍の努力を実らせた人たちがいるので、その人たちにとっては正に夢なのだろう。
つまる所、いわゆる"勝ち組"を目指すということが夢なのだろうが、人それぞれスタート地点が異なるし、置かれた環境によってそもそも選択の幅がない人もいるし、ままならないなあと思う。
自分は夢なんてなかったけれど、元気だし、思い返せば日々それなりに悪くない生活を送っているような気がする。就職には成功したと言えないが、まあ今のところは幸せなんだろうなあ。
でも若い頃から「夢は何ですか」みたいな質問が好きじゃなかったので、もし誰かに問いたい場合は「将来どんな仕事がしたい?」と、誤解のない表現を心がけてほしいものだなあと思う。余計なお世話であるが。
夢とは、実現不可能なことを指す言葉でいい気がする。