【短編小説】昼とネズミとハンバーガー
ネズミが死んでいる。
雑踏の中、道の隅で申し訳なさそうに死んでいる。
秋の穏やかな昼にその死骸はあまりにもなじんでいなくて、はじめはネズミのぬいぐるみが落ちているのだと勘違いした。ぬいぐるみのほうが今日のぽかぽかした陽気と合っていて現実的である。
それが死骸だと僕が気づいたのは、冷たかったからだ。もっとも実際に触れたわけではない。目で見たとき、ひんやりとした刺激が背筋から脳天まで一直線に貫き、全身の肌を冷気が内と外からちくちく刺したのだ。こんな体験は僕が通う小学校や僕の家、近所にあるよく行く公園でも、今向かっている学習塾でもしたことはなかった。
もっと見たい。立ち止まってじっと隅々まで観察したい。でもそれは行き交う人たちの注目を集めてしまうからやらない。歩きながら僕は目だけ動かしてネズミを見た。なんだか汚い灰色の毛は、べったりと体に密着している。口を開けて歯をむき出しにしながら顔をこっちに向けて倒れている。目は半開きでどこかを睨んでいる。
僕は目が離せない。醜い。でもそれはいつまでも見ていられるような、そんな醜悪さだ。しかしじっくり見ていていやに感じずに、かえって惹きつけられるのならば、それは果たして本当に醜いと言えるのだろうか。僕の美醜の感覚があっさり転倒してしまいそうになる。それでも僕を足早に追い抜いたりすれ違ったりする大人たちはネズミに見向きもしない。すると今度は奴に釘付けにされて見ている自分自身がわからなくなって、胸がむしゃくしゃしておちつかなくなった。
たまらなくなって僕は走り始める。人と人の間を縫うようにして息を切らしながら走る。参考書の入ったリュックが背中で大きく揺れてとにかく邪魔だ。近くにマックの看板が見えて飛び込むように店に入った。
店内も人が多くガヤガヤとうるさい。マックには行ったことがないので前に並んでいた人と同じものを注文する。ハンバーガーセットだ。建物の二階でも食事できるらしいのでトレーをもって階段を駆け上がった。日が当たる窓際の席が空いていたのですぐ坐った。そのままハンバーガーを包んでいる紙をちょっと雑に開けてかぶりつく。
はじめてのマックはしょっぱかった。お母さんは体に悪いからと僕にジャンクフードやコンビニの食品を決して与えない。そのかわりにケンコウなタベモノを毎日たくさん食べさせてくれる。もうおなか一杯で食べられないと言ってもお母さんは高い声で泣き叫ぶように僕を叱る。
ハンバーガーを食べているときもさっきのネズミが脳裏に焼き付いて離れず、体を内側からくすぐられるような気持ち悪さが僕の食欲を削ぐ。パンの間に挟まっているハンバーグを咀嚼するごとにその不快さは増幅され、僕の中のネズミの死骸はどんどん鮮明になりその輪郭もくっきりと描かれる。そしてただの心象だったはずのネズミはずっしりとした質量を持ち始め、仕舞には肉体までも獲得する。ハンバーグ。肉。僕は今、あのネズミと同じどこまでも冷たい動かなくなった肉を食べている。
体の底から胃液がこみ上げてくるのを感じる。すっぱくて苦しい。耐えきれずトレーに向って嘔吐する。笑いそうになるくらいカラフルな吐瀉物をぼーっと見つめる。汚い半透明の液体にまみれたこの赤色のかけらはなんだろう。こっちのふにゃふにゃになった緑色のかけらはなんだ。野菜だろうか。しかしこのハンバーガーにはそんな色の食材はない。となると家で食べた朝食だ。お母さんが出した食べ物を全部そのまま吐き出したのだ。
吐き出した量以上になんだか体が軽くなったように思った。
窓から差し込む陽の光が一段と強くなった気がする。同じ窓際の僕の右隣の席で赤ちゃんが泣いている。母親が必死にあやしているがなかなか泣き止まない。僕はすっきりとした頭で、今ここであのネズミの死骸をもってきて赤ちゃんをあやすことを考える。暖かい陽の光で死骸はぬいぐるみのようにしか見えず、赤ちゃんはきっと泣き止んで笑顔になる。母親は安堵と感謝の表情を浮かべた後でネズミの異様な冷たさに気づくだろう。そのときの母親の気持ちを想像するとちょっとかわいそうだなと思って妄想をやめた。
僕のお母さんのことも考える。ネズミの死骸を抱えて家に帰り、玄関で迎えてくれるお母さんは、まず僕が今日塾に行っていないことを知って狂うように怒りだすだろう。死骸に気づいたらパニックになって家で暴れだすに違いない。そこで僕はぎゅっとお母さんを抱きしめて、大丈夫だよ、何も心配いらないよと優しく言うのだ。お母さんはきっと僕を抱き返してくれる。
昼が終わって夜になるまで僕はここにいることにした。僕が帰るまでどうかネズミの死骸があの場所に残っていてほしい。そんなことを思って、日光を浴びながら食べかけのハンバーガーをかじる。くせがなくて、なんだかやみつきになる味だった。
(2000字)