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京町家との格闘をお話ししてみなさんと一緒に考えます

はじめに

町家に関わるきっかけ 京町家の保全再生に関わって足掛け30年になります。きっかけは素朴な動機で、京都で仕事に関わる活動するなら京町家だろうとか、建築の基本は木造だと思っていて、できるだけ木造を手掛けるようにしてきたからというようなことでした。

今の木造建築は仮設建築? 「京町家再生研究会」に入会して京町家を始め伝統木造建築を見て歩き、研究者や同業の先輩と話をするなかで、見えてきた京町家は今まで習得してきた建築設計の技量では、とても太刀打ちできない相手だと思うようになりました。それでも先輩の〝今まで建ててきた木造は仮設建築だ〟との発言には〝そんなものは作ってきてはいない〟というプライドが頭をもたげました。しかし京町家の改修を手掛けるようになり、そうだったと考えるしかないと思えてきました。

「京町家をっさ得る職人さんの技」展のポスターと会場風景

今は町家を守れるようになっていない 京町家をどう直して守っていくのか、ということを真剣に考えるようになったのは、設計者や職方の同志と「京町家作事組」を立ち上げてからでした(99年4月)。「建築基準法」の「既存不適格建築物」(建てたときの基準が変わって今の基準に適合しない建物) を改修する際には「確認申請」の有無を問わず現行基準に適合させる必要がある、京町家を作り守っていた時代と現代とでは法制度、経済、流通、技術、そして家と家業を代々継いでいくという慣習、あるいは持主は変わっても町家を残すという社会的価値観も変わってしまっている、まさに八方ふさがりでした。

町家は忘れられていた また仲間の間でも京町家のとらえ方は一致していませんでした。すでに親方として町家を建てた職人はいないので無理もないですが、〝大火事は50年に一度だから気にするが、大地震は100年に一度だから気にしなかった〟とか〝町家は建て詰まっていて揺らされてももたれ合ってもつ〟などといういく分軽口を含んだ見解すらありました。


『町家再生の技と知恵』表紙

アリバイ作り そこでまずは仲間と町家に対する見方や考え方を一致させるために。改修マニュアルを作ろうということになりました―上記のような環境で仕事はほとんどなく時間はあった―。メンバーの共通理解が主眼で、各職方との対話を大切にしたために、足掛け3年かかりました。それをまとめた内容は改修マニュアルにとどまらず、京町家の定義、歴史、特性を含む包括的なものになり、当初の目標を越えて出版ということになりました(02年5月)。そしてそれを根拠(アリバイ)にして町家を改修していこうということになりました。自分たちで建てた理屈で行為を正当化するというかなり危なっかしい話ですが、そうすることでしか、京町家を直して守るという活動をスタートさせることができなかったのです。そしてぼつぼつ改修依頼が入ってきました。

京町家にスポットが そんななか意外な方面で京町家が脚光を浴びることになりました。〝そうだ京都に行こう〟、〝日本に京都があってよかった〟などの環境キャンペーンによって〝町家でご飯〟的な取り上げられ方でした。仲間とは職住一致の京町家を守るのとは違うと言いあいましたが、京都への関心が山際の寺社仏閣から町なかに移るきっかけにはなりました。

京都市も動く その後京町家ネット(再生研、作事組、友の会、情報センター)や他会の京町家保全・再生活動にこたえる形で、京都市も動き出しました。「京町家再生プラン」(00年5月)、「景観条例」(07年9月―旧市街地の建物高さを約半分にする―。)、「京町家保存活用条例」(12年3月―京町家の建築基準法に適合しない事項を別の手立てで補う―)、「保全継承条例」(17年11月―町家を壊さないようにする―)などです。※条例名は略称です。

京町家がお荷物から値打ちものに 市民活動や京都市の条例対応によって、京町家の評価や環境も変わってきました。作事組を立ち上げたころ、不動産のチラシに「古家付」とあったのが京町家で、値段交渉の際には解体費を値切られました。つまり京町家は土地に乗っかったお荷物でした。それが、京町家が載っているから高い値段がつけられるようになりました―住むためには高すぎるという反面も―。

職人が「職人」を嫌う 実は作事組の名前をどうするかというときに、私が提案したのは「京町家職人組」でした。しかし左官職の長老が職人という呼び方をされるのはかなわん―蔑視ではないが古臭い職業として無視されてきた―。というのです。クラフツマンなんたらといった代替の候補が挙げられ、結局、祇園祭の山や鉾を建てる職人を作事さんと呼ぶ、あるいは江戸幕府の職掌にもあるからといって作事組になりました。今は若い職方がワシは職人だ、というようになりました―今頃になって職方の長老が、棟梁とははたがかってにいうことで、職人が自他ともに最上の誉め言葉だと言っている―。是非はあるものの町家民宿、カフェ、ギャラリーなど活用事例も増えました。

いまだに潰される しかし今も毎年4~500軒の京町家が潰されています(一時の半分以下ではあるが)。町家がその生い立ち、構造のしくみ、意匠、設えと暮らしなどに沿って、正当に評価されるようになったわけではありません―相変わらず関係のない物差し(法制度や現代の価値観)を当てられている―。

守り作ることの普及 歴史的街区や町並み視点のまちづくり、町家や民家の保全・再生・活用が全国的な展開を見せるなか、専門家や関心のある人々には、その理解と大切さの評価が広まってきたと思います。しかし京町家を含む伝統木造の住まいが正当に評価され、それに見合った存在として守られ、さらには新たに建てられるようにするためには、伝統木造やそれを支える技、歴史的町並みの価値を住み手や市民と作り手が共有するしかありません―それが作り守られてきた理由―。

一緒に考えよう 伝統木造と新しい基準による在来木造との道が分かれて100年・4世代、建築基準法で伝統木造が否定されてからでも約70年・3世代が経っています。いまだに専門家ですら、伝統木造と在来木造の区別がついているとは言い切れず、町家に耐震性、高気密・高断熱、シックハウスなどの町家とは関係のない性能を押し付けています。ましてや一般の住み手や市民の方々が、どのように考えどうしたらよいのかと右往左往するのは仕方がないことです。京町家はどんな生い立ちで、どのような仕組みでできているのか、それを支える技はどのようなものか、そして誰が(持主、利用者、市民、国民、それとも)どのように守り育て作っていくのか、それをみなさんと一緒に考えていきたいと思います。

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