
【小説】ハンバーグ
古臭いエンジン音と大袈裟な振動が、臀部から背中を伝い、頭を揺らす。
今私は、盗むような形で親父から借りた車のハンドルを握り、夜の巷を徘徊している。
とは言っても、ここら一帯は市役所を中心として、美容院とちょっとした飲食店が軒を並べているだけで、道を照らす街灯の方が明るい。
親父の車はトヨタのスターレットep82で、1970年代に主流であったと聞いている。のっぺりとしたフォルムに上部が熟した赤ワインに似た色で、下部がシルバーといった配色になっている。少しばかりアンバランスな配色を、細めのヘッドライトのくすんだ黄色がまとめ上げていて、古さを感じさせつつ、時代の遅れを取らないデザインで、私好みである。
しかし、ミッション車ゆえ私を困らせている。車の内面的な個性はこのシフトレバーに出てくると思っているが、教習車のものよりもレバー自体が細く、心許ない。それでいて、ローとセカンドのレバーが異常に固く、リバースにはかかりやすいといった具合である。この不具が発進時の私を大いに不安にさせていた。
通り過ぎる街灯が一定のリズムで明暗を作り出し、暗い車内は、私を後ろから徐々に包んでいく。
こうした夜の日を跨ぐ時間に車に乗ることは、例外なく、ある一つの理由から来ていた。
私は決して自らのことを思慮深い人間だとか、考えにふける人間だとは思ってもいない。しかしながら、時折、自身の思考の辺境にもともとあった物事が外界から入ってきて、かつ、重ね合わさった時、瞬く間に思考はそのことだけを巡らし、止まらなくなる。それはまるで、水底に泥を沈殿させた綺麗な湖に、ほんの些細な泥の塊が混入した刹那、末広に水中に溶け込む泥が水底の泥を掻き上げて、湖全体を茶色に染め上げてしまうようなものである。
掻き上げられた泥は水面を飛び越し、止まるところを知らず、水辺に、穴を掘った後のような小ヤマを作る。それはさらに肥大し、壁になり、壁は巨大なヤマとなって動かなくなる。
私はこのヤマの内側に存在し、閉じ込められ、人々は無愛想だとか、漠然と生きているのではないかと思い、私を虐げる。
しかし、これはある時を境にして突如として粉砕する。時の流れなのか、はたまたキッカケがあったのか、未だわからない。
ただ、この時が来ることを切望し、何かを追いかけて私は夜に車を走らせている。
北に向かって走っていると、深夜にもかかわらず、煌々と辺りを照らす看板がみえた。そこには、「喫茶アンジェリーナ」の文字と、「ハンバーグ」、「コーヒー」の文字が見えた。
ハンバーグに目がない私は、大きくハンドルを切り、深夜の喫茶店へと向かった。
外観は赤土のような色のトタンが魚の鱗のように壁をつくっており、屋根は大きな板を乗せた様に平面で、夜にならないと気がつかないほど、トタンが看板の光を反射して艶やかに光っている。
扉は、栗の木だろうか、重々しく佇んでいた。
扉を押し開け、扉についたベルが入店の合図をする。
店内は外観には似つかない、暖かな木目を基調としており、天井には巨大なプロペラが回っていた。しかし、客席は床からせり出す様な壁に、各々を細かく区切られており、4人席はなく、2人席のみが区切りの間に細々と配置されていた。まるで、京都の街並みのように規則的に席がならべられ、私にとって非常に居心地の良さそうな店だ。
この時間では、もちろん客は私以外居なかった。
席に着くや否や、メニューも見ずにおすすめのハンバーグと、それに合うコーヒーを頼んだ。ウェイターは「承知いたしました」と一言もらし、厨房へ消えていった。
他の客もいないので、人の目を気にすることはない。妙に気になっていた急かす様な店内bgmが徐々に私から遠のいていく。料理を待つ間、私は再び自らが作り出したヤマの中に閉じ込められた。
先日、恐れていた事態が私の身にふりかかったのだ。
気の知れた仲の友人から軽く一杯どうかと誘われ、特に後の予定もなく、気が乗っていない訳ではなかったので付き合うことにした。その男は元木といった。
元木は私の良き理解者であった。しかし、理解者というには少し語弊があり、私は歪んだ形で彼を理解者として仕立て上げていた。故に、彼自身は私の理解者だとは認知していないだろう。
その形とはこうである。元木は極度に他者に対してもの言う癖があった。彼の意見は非常に淡白で、理論的である。
例えば、私がとある理由でカレーライスを禁食していた時があった。しかし、どうしても欲望が勝ってしまい、彼と一緒に食事をした時、とうとうカレーライスを頼んでしまった。彼はこの一連の事象にこう述べた。
「君は確か、病気か何かでカレーライスを食べることが出来ないはずだ。しかしながら、君は今、頼んでしまった。果たしていいのだろうか。君の言い分もよくわかる。なんせ、僕は君じゃないし、僕はカレーを禁食したことなんかないからな。僕が意見するのは心底おこがましい。ただ、これから言うことは至極"当たり前"のことだ。私の意見ではなく、人間である以上、個人である以上、心に留めておかないといけない事なんだ。君は今、禁止事項を、しかも自分で設けたモノを破ろうとしている。これは人間を捨てることなんだ。人は"約束事"で成り立っている。君が生まれてきたのも、男女の出会いから、出産の過程まで、自然の決められた流れによってなりたっている。君が今そこに平然と存在しているのも、大気圧やら、法律やらといったあらゆる決まり事の上に成り立っている。この決まりごとは、君が生まれたと同時に決定されることなんだ。つまり、これらが破綻した時、自然は壊れ、身体は肉片となって弾け飛び、全ては無になる。どうだい、規模は違えど君がやっていることは自身を破綻へ導くぞ。」
私にとって元木の意見はある種のエンターテイメントとして聞いている。
元木は僕の部屋に勝手に上がり込む、棚からコップを取り出し、勝手に冷蔵庫を開けて、注いだお茶と一緒にソファーに沈み込む。数分して、飲み干したコップを机の上に置いて出ていっていく。彼が来る前と変わったことは唯一コップだけだ。そのぐらい、私にとっては些細なことだった。
しかし、時にこのコップがカタカタと音を立てて、自ら床へ落ちて行き、割れることがある。
彼の発した些細な言葉こそが、度々私をヤマの中へと閉じ込める要因であって、つまるところ私の理解者なのである。
その時は突然やってきた。
彼はつまみながらこう言った。
「君は少々自分を持ち過ぎている気がするな。君の酒の飲み方を見てふと思ったんだ。炭酸は苦手かい?わざわざ梅酒のロックを頼んで、手元のチェイサーで薄めて飲んでいるよな。君が配合するよりマスターが配合した梅酒水割りの方がおいしく味わえると思うんだが。君よりもマスターの方が、遥かにお酒の知識もあるわけだし、それ故にマスターと呼ばれているわけだし。君は生きていくのが下手だと見える。世の事柄に関して、君は自分が納得のいく事以外を全く信用してないな。もっと俯瞰的に捉えてみるのはどうだい。例えば、梅酒水割りだって、ずっとこの店に存在し続けた、生き抜いたものだから信用に足るものだ。頼んでみようとか。君は梅酒水割りそのものの最高峰を目指し過ぎている。もっと全体を見ないと。"自分でヤマを作って、壁を作って閉じこもるなよ。"」
その後の記憶はない。彼が発した言葉を最後に私はこれまで以上に厄介な山に囚われてしまった。この、"ヤマを作り出す"ことを要因とした巨大なヤマは、このヤマに閉じこもっている以上、決して出られない矛盾の産物になってしまった。このヤマは外側はおろか、内側からも壊れない。
元木の様に物事を広く、単純化して考えてみる。しかし、このヤマはあまりに複雑で、巨大で、永遠であった。
………
……
…
この妄想を断ち切る様に、目の前に既に用意されていたハンバーグをナイフで切る。その肉塊は私の一太刀でボロボロと崩れた。その刹那、断面からサイコロの様な人参や、よく刻まれた玉ねぎがこれ見よがしに飛び出てきた。この事は私を混乱させた。
私にとってハンバーグとは、牛と豚の合挽肉とほんの少しのナツメグと塩胡椒、そして丁寧に鉄板の上で焼かれ、煮詰めたケチャップソースを被った、単純だが洗練され、頑なに刃を通さない弾力と肉と肉の結合力を持ったものなのだ。
しかしどうだろうか、このハンバーグには隠す様に野菜が入り込み、ハンバーグであることを維持できていない。加えて、複雑化したハンバーグの中身が、ほんの一太刀で打破されてしまった。
混沌とはこれほどまでに単純なのだろうか。
私は目の前にあるハンバーグが、醜い内臓を露出させたただの肉塊にしか見えなかった。
私はそのまま席を立ち、机に2000円ほどを叩きつけ立ち去った。
気がついた時には、私はさらに北を目指して車を走らせていた。セカンドには入りやすかった。
北には、この町を優しく包み込むような威厳のある山が聳え立っていた。この山は噴火が起こらなければ富士山をも超える大山だと言われている。その証拠に、裾野は富士の山ほど広く、長いのに対し、ある高さで一文字(いちもんじ)に切られたように山の頂が広くあった。
私は、いや、この町の人々はこの山と共に暮らしていた。享受と天災は全てこの山から来ていた。それ故に、皆この山を知り尽くし、愛していた。
私もその1人だった。この山は、学校の行事から始まり、友人とどこかへ出かけるとき、恋人とデートする時も、暇さえあれば北へ車を走らせる指針にもなっていた。
山は私を多大なる愛で介抱し、気づきを享受し、生の厳しさを与えた。
そんなことを考えながら車を走らせていると、突如として、激しい跳躍とともに前側から何か巨大なものが私を引っ張っているかのような負荷がかかった。
「プァァァァァァァァァァァ」
私は、胸でクラクションを鳴らすような形で、ハンドルを覆い被す状態で、少しの間気絶していた。
ハッと目が覚めた時、フロントガラスは愚か、タイヤのパンクも、何も異常がなかった。
エンストだろうか。
しかし構造上、走行中にエンストを起こしたとしても、こんなに急激な減速は起こらない。私は混乱した。
何度もエンジンキーを抜き差ししても、捻っても、車は動かなかった。
「このオンボロが!」
私はそう言葉を吐き捨て、山道へ入っていった。
この山にはカーブの途中や、標識に、よく見ると番号が振られている。私が車に捨てられた場所はちょうど19番目のカーブの手前だった。この山道は23のカーブがある。
私は無性に山の頂を目指していた。19番目のカーブを脇に逸れ、山道に入り、9つある標識のうち、6番目のとまれの標識の脇をすり抜ける。そのままさらに山道を進み、9番目の「この先山頂」の書かれた青看板の脇にある階段を登れば、歩いて山頂までいく事が出来た。
山頂から見た景色はまばらに街灯の灯りのみが浮かぶ、暗闇の星空のようだった。しかし、足元、つまり、山のふもとに目をおとすと、それよりもさらに明るく、煌々と等間隔に並んでいる電柱灯が私の来た道を照らしていた。私はこの光景を見てある一つのことを思った。
対象を深く知ること、知ろうとすることはヤマをも砕く。
私はその思念を胸に山頂から飛び降りた。
【あとがき】
タイトルは適当です。最初は「僕なりの恋愛論」というタイトルにしようと思ったのですが、あまりに意味がわからないので、さらに意味がわからないものにしました。悩みとは案外、輪郭がハッキリしてるものほど複雑ですよね。