Diageology 元ディアジオ ジャパン株式会社社員の回顧録⑤
回顧録⑤
皆様こんにちは、元ディアジオ・ジャパン社員による回顧録の第5回目です。
今回はディアジオ社の前身であるディスティラーズ・カンパニー・リミテッド社(DCL)を買収しましたギネス社について触れていきたいと思います。ギネス社にもDCL同様の紆余曲折がございますので、一連の流れと思っていただき、ストレス解消と思ってお読みいただければと思います。ひとつ宜しくお願い申し上げます。
ギネス社(Guinness)
ギネス社が2世紀以上(250年以上)にわたって醸造してきた濃いクリーム色(クリーム色は泡の色です)のスタウトビールは、焙煎した麦芽を他の原料と一緒に仕込んだダークルビー色のビールで、アイルランド人の飲酒習慣の代名詞とされる製品です。世界で最も成功しているアルコールブランドの1つで、ギネス・スタウトビールは現在、約50か国で醸造され、150か国以上の国々で販売されています。ギネス醸造所は年間約20億ユーロ相当のビールを生産していますし、2001年以降消費量は減少していますが、アイルランドで最も売れているアルコール飲料です。ギネス社は独創的なマーケティング戦略と巧みな経営によって、多国籍企業としての地位を確立してきました。
1725年3月12日にアイルランドのセルブリッジで生まれたアーサー・ギネス(Arthur Guinness)は、父親が勤め先で黒ビール醸造に携わっていたとみられ、その技術を伝授されたと思われます。その後父親の再婚相手がセルブリッジで旅館を経営しており、アーサーもこの宿で働き、ここでビール醸造技術を磨いたらしいのです。1755年にはリーシュリップに小さな醸造所を購入しましたが、この事業は5年後に弟に譲っています。
1759年、経験豊富な醸造家になったアーサー・ギネスは、ダブリンに進出し、運河計画に目を付けてセント・ジェームズ・ゲート(St. James's Gate)にある古い醸造所を借りました。醸造所を借りただけでなく、年間45ポンドで9,000年という異例の借用契約を結びました。(後日常識的な契約を結びなおし、実際ギネス社はこの土地を買い取っています。) 醸造所の本格的な稼働後まもなく、アーサー・ギネスはビジネスと市民活動の両方で評判を確立しはじめました。同社は、ダブリン周辺の町のパブと活発な取引を行い、その後工場や、倉庫、馬小屋、銀行、社宅用家屋、2つの保健室、病院なども建て、そしてダブリン最大の雇用業者のひとつとなりました。ギネス社は、刑事改革、議会改革、決闘の禁止など、さまざまな問題に積極的に取り組み、公共社会に貢献しました。しかし1775年、同社が過剰に水を使用していたため水利権をめぐってギネス社と市長の使者との間で激しい論争が起こってしまいます。それは市当局が醸造所に水を供給する水路を埋めるという決定をしたことがが主な原因でした。市当局関係者を力ずくで追い返したアーサー・ギネスは慈善家であり実利主義者、革新者、家族思いの男、そして熱き闘士でもありました。
アーサー・ギネスは1778年にダークビールのポーター(porter)を販売し始めました。エール(ale)だけ製造していてもダブリン市場でしか売れないので限界があると判断したため、1785年から英国の労働市場で売れているポーターをイギリスへの輸出を開始しました。1799年にはエール製造を止め、以降ポーター製造に集中しました。ギネスビールで「スタウト(stout)」という名称が使われたのは、1840年代が最初でした。ギネス社は、その歴史の大部分を通じて、ポーターまたはスタウト、エクストラスタウト(extra stout)の3種類のビールのみを生産していました。スタウトはもともとビールの強さを指していましたが、やがてボディと色に意味が移りました。そういえば以前会社のインセンティヴ研修でダブリンを訪問したとき、同行してくれましたディアジオ・アイルランド社の社員の方と脇を流れるリフィー川(River Liffey)の水がやたらと黒い、という話をしてましたら、この川にはギネス社の工場があまりにも古くて工場のどこからかビールが漏れ流れてしまっているから黒いんだ、という冗談とも言えないことを言ってましたので、やはり黒い液体、イコール、ギネスビールというイメージが強いのですね。
ギネス社の事業は大成功をおさめ、1803年アーサーの死後、事業はその次男アーサー・ギネス2世(Arthur GuinnessⅡ)に継承されました。1815年時には6万6672樽のビールを生産するまでになりました。醸造所の記録によれば、ナポレオン戦争終結(ナポレオン1世ですよ!)から大飢饉が終わる1850年までの間に、同社の生産量は50%増加しました。やがてイギリスとアイルランドのビール醸造会社トップ3の1つになったギネスビールの売上は、1868年の35万バレルから1876年には77万9000バレルに急増しました。そして1883年にギネス社は世界一の醸造所になりました。1886年10月、ギネス社は株式公開会社となり、年間平均113万8000バレルを売り上げました。これは、ビールの宣伝や割引販売を拒否したにもかかわらず実現したことです。またギネス家は少しずつ政治の世界や金融業界、宗教界に進出し、これをきっかけに各分野でギネス家の影響力は大きく高まっていきます。
1886年、ギネス社は上場企業となり、ロンドン取引所で株式を取引しました。同社は株式で600万ポンドを調達し、アイルランド、イギリス、そして海外へと事業を拡大する野心的な時代に乗り出しました。1914年までに、ギネス社は年間265万2千バレルのビールを生産していました。これは最も近い競合相手であるバス・ペールエール(Bass Pale ale)で有名なバス・ブリュワリー社(Bass Brewery)の2倍以上で、英国のビール市場全体の10%以上を供給していました。1920年代には、ギネスは東アフリカ、西アフリカ、カリブ海諸国にも進出しました。特に米国はアイリッシュ系の住民が多かったため輸出を高める素地はあったのです。また、ギネスビールは独自の醸造法により、海外市場までの長い航海でも、生産物の品質が損なわれることはありませんでした。しかし、今でも残るギネス・クオリティ維持の精神は130年ほど前から続いていたのです。1890年代から、ギネスの品質チームがクオリティを報告するために世界中を航海していたのです。南アフリカからオーストラリア、シンガポールから北米、ブラジルまで、彼らは文字通り世界を股にかけて蒸気船で世界中を航海し、ギネスビールが高品質の状態で出荷、保管、提供されるようにチェックし報告していました。今でもその記録が残っています。
さらに巨大なビールメーカーになっていきましたギネス社ですが、当然のこと製造のための大麦麦芽が必要でして、アイルランドの大麦生産農家の方々は大変な思いをして大麦を出荷していたそうです。以前世界の工場という番組をCSで見たことがあったのですが、その中にギネスビールの工場編もありまして、今現在でもそうなのですが、一番の大麦の買い取り業者がギネス社でして、クォリティーの高い大麦は高い値段で、そうでない大麦はそこそこの値段でしか購入してくれないので、1年を通じてクォリティーの高い大麦を作らないと年間収入に相当の影響が出るそうで、作っていて気が気ではなく毎日の大麦の成長を欠かさずチェックしているそうです。また1823年から1900年前半の間に、アイルランドのウイスキー生産量は4倍に増加し、ダブリン・ウイスキーとして特に高く評価された時代がありました。当時アイルランドにあった28の蒸留所でも当然のこと麦芽が必要になり、ギネス社も蒸留所に麦芽を相当数販売していたそうです。そんなところからも大麦の大量購入につながっていました。しかしそれでも間に合わず、その頃のアイリッシュ・ウイスキーは麦芽化大麦と麦芽化していない大麦やその他の種類の麦を混ぜて作られていたため、ピュア・ポットスチル・ウイスキー(pure pot still whiskey)と呼ばれて、シングルモルト・ウイスキーとは区別されていました。しかもピュア・ポットスチル・ウイスキー(特にジェムソン社をあてつけるかの如く)は3回蒸留しているのですが、この原料で2回蒸留だけだと結構オイリー感が残ってしまうので3回蒸留しているのだと以前ブッシュミルズのマーケティング担当者が言っていました。自社のシングルモルト・ウイスキーとの差別化を図ってのことなのでしょうが、アイリッシュウイスキーは大体3回蒸留ですよね。ブッシュミルズは麦芽のみの使用のシングルモルトで3回蒸留だと強調してました。
また、その頃のダブリンの4大蒸留所であるジョン・ジェムソン(John Jameson)、ウィリアム・ジェムソン(William Jameson)、ジョン・パワーズ(John Powers)、ジョージ・ロー(George Roe:すべて家族経営で、総称して「ビッグ・フォー」と呼ばれていました)が、アイルランドの蒸留業界を席巻していました。このうちのジョージ・ローのトーマス・ストリート蒸留所(Thomas Street Distillery)はその閉鎖後ギネス社が買収し、ギネス醸造所の発電所として建物を改装しましたが、ロー&コー蒸留所(Roe & Co Distillery)としてディアジオ社により2,500万ユーロの投資を受けて、2019年6月にオープンしました。元々ジョージ・ローの蒸留所はセント・ジェームズ・ゲートのお向かいにあった広大な敷地でした。
また、アーサー・ギネスの慈善活動の伝統は、7世代にわたって父から息子へと受け継がれ、現在もギネス社に息づいています。1800 年代、ギネス家はダブリンのセント・パトリック大聖堂(St. Patricks Cathedral)の修復に尽力しました。ダブリンでは、ギネスはしっかりとしたアパート、ホステル、屋内の衣料品と食品の市場、そしてアイルランド初の託児所であるプレイセンターを建設して家族を支援しました。ギネス社は従業員の福利厚生として、当時のダブリンの産業平均賃金より一般的に10%高い賃金を支払い、1870年には医療センターが設立され、従業員だけでなくその家族にも無料の医療を提供しました。ギネス社は、年次有給休暇、無料の食事、年次遠足、ビール手当などの従業員福利厚生を導入し始め、1880年代には全従業員を対象とした年金制度を導入しました。当時アイルランドでは、結婚するならギネス社員が一番、と言われていたと研修で伺いました。ギネス社に勤めることが誇りでもあり自慢でもあった時代だったのですね。以前のディアジオ・ジャパン社に配属されていたアイルランド人のクオリティ・マネージャーのピーター・コールさんは祖父から3代ギネス社に勤めている、と嬉しそうにおっしゃてました。また、周囲のコミュニティを支援することの価値も理解しており、それは今日でもギネス社の大きな焦点となっています。アフリカ大陸全土の人々に安全な飲料水を提供する「ウォーター・オブ・ライフ」などの取り組みを行っております。
1927年、会社の経営は次の世代に引き継がれました。ルパート・エドワード・セシル・リー・ギネス (Rupert Edward Cecil Lee Guinness)は、主にロンドンのパーク・ロイヤルに近代的な醸造所を建設し、イギリス南東部で拡大するギネス社のビジネスに貢献したことで知られています。さらに1933年にアメリカで禁酒法が撤廃されアメリカ市場が回復したこと、またギネス社が広告代理店SH・ベンソン社(S. H. Benson's)を起用して本格的な広告を開始したことで売り上げは再び伸びるようになり、1939年時点での売り上げは1914年時の倍になっていました。最も有名でよく知られている一連の広告は、主にアーティストのジョン・ギルロイ(John Gilroy)によって1930年代から1940年代に制作されました。ベンソンは、「"Guinness for Strength"」、「"Lovely Day for a Guinness"」、「"Guinness Makes You Strong"」、「"My Goodness My Guinness"」、そして最も有名な「"Guinness Is Good for You"」などのフレーズを含むポスターを制作しました。ポスターにはギルロイの特徴的なアートワークが使用され、カンガルー、ダチョウ、アザラシ、ライオン、特にオオハシ(toucan:あのくちばしの大きいカラフルな鳥)などの動物が描かれていることが多かったです。オオハシはハープと同じくらいギネスのシンボルとなっています。
このこともありパーク・ロイヤル工場は1936年に操業を開始し、ギネス・エクストラ・スタウトとドラフトギネスが英国市場向けに初めて醸造されました。1974年までに、この工場の生産量はセント・ジェームズ・ゲートを100%上回りました。パーク・ロイヤル工場の建設は、土木技師のヒュー・E・C・ビーバー(Hugh E.C. Beaver:後のサー・ヒュー・E・C・ビーバー卿)の監督のもとで完成しました。第二次世界大戦後、ギネス社はビーバーに副社長としてギネスに参加するよう要請し、ビーバーはそれを受け入れました。そして1940年代後半に前社長が亡くなると、ビーバーは社長に就任し、経営の近代化、新しい経営・研究方針の導入、輸出の拡大、製品の多様化などを進めたと言われています。とりわけ宣伝手法の改革・開発に力を入れました。1950年代初頭にはアーサー・フォーセット(Arthur Fawcett)の主導でギネス・スタウトのミニボトルを大量に配布しました。このミニボトルに人気が出たことでギネスビールの知名度も上がりました。1954年と1955年には連絡をくれれば記念品を配布する旨の手紙を入れたギネスビールのミニ・ボトルを5万本も海に流して話題となりました。(さらに1959年のギネス創業200周年記念では15万本流したそうです。) ビーバー社長の功績として1955年9月22日には英国で初めて商業テレビが始まった際にはギネス社もCMを出しました。同じく1955年大きな成功を収めた出版物「ギネスブック・オブ・ワールド・レコーズ(Guinness World Records)」を発案し、創始者としても知られています。
象徴的な黒い液体を持つギネスビールは、ほぼ2世紀にわたってアフリカの消費者の心の中で特別な位置を占めてきました。アフリカ大陸へのギネスビールの最初の出荷記録は、1827年にシエラレオネ(Sierra Leone:当時は英国保護領、現シエラレオネ共和国)に到着しました。それから約135年後の1962年に、アイルランドと英国以外で最初のギネス醸造所がナイジェリアのイケジャに設立されました。今日、ギネスビールはサハラ以南のアフリカ全域で事業を展開しており、アフリカ初のイノベーションが数多く生み出されています。最初のイノベーションは、ギネス・フォーリン・エクストラ・スタウト(Guinness Foreign Extra Stout)です。これは、ギネスビールの液体が外国の海岸までの長い航海に耐えられるようにするために、2世紀以上前に初めて醸造されました。そして、ギネス・スムース(Guinness Smooth)があります。これは、ギネスの特徴である風味の完璧なバランスを備えた、滑らかで独特のビールです。この戦略に従って、同社はマレーシアにも新しい醸造所を建設し、その後ナイジェリアには第2、第3の醸造所を、さらにカメルーン、ガーナ、ジャマイカにも醸造所を建設しました。また、この時期にギネス社は新商品のアイリッシュ・エールを開発し、フランスとイギリスに輸出しました。
ちなみに日本で最初にギネスビールの輸入販売を手掛けたのはサッポロビール社です。昭和39年(1964年)でした。当時スタウトビールを日本で作りたいと考えていたサッポロビール社の松山社長が、アイルランドでギネスビールに出合い感動したのがきっかけだったそうです。最初のギネスビールはエクストラ・スタウト瓶からで、当時のアルコール度数は8%だったと、サッポロビール社の横浜の支社長がおっしゃってました。私が最初に飲んだエクストラ・スタウトは自宅近所の私が担当していた酒屋さんの自動販売機で購入したのが最初でして、なんだか焦げた食パンを液体にしたようなビールだと思ったほどです、濃くてコクがあっておいしかったですけど。2003年にはエクストラ・スタウトは6%になってましたので、最初のギネス体験は8%から6%の間の度数だったと思われます。私が酒類問屋で営業をしていた1990年代はエクストラ・スタウトの瓶と缶があり、知らないうちにロンドンパブ・ギネスという250mlの瓶が発売されていました。今でいうドラフトギネスの走りで、飲食店様でロンドンパブ・ギネス用の圧縮空気の充填機を取り付けていただき、専用のグラスに液体を注ぎ、その充填機のノズルを液体の中にさし、タップ(レバー)を手前にグッと下げると液体の中に空気がシュッと混ざりこみ泡が立つという仕組みのマシンでした。今でもオークションで販売されていると思います。なぜロンドンパブ・ギネスを知ったかというと、恥ずかしい話ですが商品自体は知らなくて、担当していた鎌倉の酒屋さんから発注されていたそのギネスビールを飲食店様が入荷次第すぐに欲しいとのことでしたので自分で配達したのです。その時にどのようなビールかを酒屋さんから聞いた次第です。全く仕組み自体の意味が呑み込めませんでした。そのうち、飲食店様で、そのマシンのノズル部分をしっかり洗浄しないためか、交換の依頼が多くなり過ぎたのと、1995年発売開始の樽詰めドラフトギネス(30L)と1998年販売開始のドラフトギネス缶(330ml)にシフト・チェンジしていくわけです。ギネスビールにつきましてはサッポロビール社から何の説明も聞いておりませんでしたので(いつも飲んでばかりいたので聞いても頭に残らなかったのかもしれません)、私が積極的に販売した覚えもありませんし、酒問屋としてもどれだけ販売していたのでしょうか、特約でしたのにね。
ここで余談ですが、1967年にザ・ビートルズ(The Beatles)が発表しましたSgt. Pepper's Lonely Hearts Club BandというLPの中にA Day in the Lifeという曲がありまして、ジョン・レノン(John Lennon)とポール・マッカートニー(Paul McCartney)の共作なのですが、その曲のレノンが書いた詩の1部分がデイリーメール紙の記事の引用なのですが、その詩の中に、車を運転中に意識を失い、信号が赤に変わったのに気が付かず、事故を起こして亡くなった男性の話が出てくるのですが(1966年12月18日、自動車事故で死亡)、その方がギネス社の御曹司のタラ・ブラウン(Tara Browne:ドミニク・ブラウン(Dominick Browne:第4代オレンモア=ブラウン男爵)さんと結婚したウーナ・ギネス (Oonagh Guinness)さんとの間の子息)さんだったそうです。当時は若い上流階級の人の間でもドラッグが流行りだし、彼もLSD(非常に強烈な作用を有する合成幻覚剤)を仕込まれた紅茶を飲んだ後、車を運転中にその効果が出てしまい酩酊中に事故を起こしてしまったのでは、との憶測が広まったそうです。
1965年から1971年にかけて売上高と1株利益が2倍になりましたが、ギネス社は1970年代に入り多くの問題に直面することになりました。これは、ギネス社がタイドハウス・システム(tide-house system:当時5大ブリュワーが英国国内の10万軒のパブのほとんどを所有、運営していました。そのパブは当然販売するビールを特定の醸造メーカーまたはパブ会社から購入することになっていました)の外で運営されており、投資家は他のブルワリーに成長の優位性を感じ始めていたことが主な理由に挙げられます。 ロンドンの金融界は、ギネス社が小売業の追加コストを吸収しなければならないため、不利であると判断しました。またパーク・ロイヤル工場がダブリン工場の生産量を上回っていたため、同社と従業員組合は、ダブリンのセント・ジェームズ・ゲートの従業員をほぼ半減させなければなりませんでした。この時期、ギネス社の多角化も順調とは言えず、ベビー用スタイリング剤からカーポリッシュまで、さまざまな製品を製造する270社を買収しましたが、その多くが赤字経営でした。スタウトとエールの味を融合させた新商品は、300万ポンドの失敗作となってしまいました。
この状況を改善するために、ギネス社の幹部は、会社のリーダーシップを引き継ぐ初の家族以外の専門経営者を招集しました。ルパート・ギネスの孫のベンジャミン・ギネスと多くのギネス関係者は取締役会に留まりましたが、J・ウォルター・トンプソン社(J. Walter Thompson)とネスレ社(Nestlé)の元幹部であるアーネスト・サンダース(Ernest Saunders)が最高経営責任者に就任しました。サンダースは、会社の異質な保有株を削減することが自分の最初の仕事だと考えたそうで、160社を売却しました。先にも記しましたが、製品の開発とマーケティングのために新しい経営陣を迎え入れ、より折衷的な広告を増やすために多額の投資を行い、特殊食品、出版、小売(コンビニエンスストアのセブンーイレブンを含む)で狡猾な買収を行いました。 サンダースによれば、醸造業は将来的にはギネス社の利益の総量の半分しか占めないだろうという憶測の元スタートし、金融アナリストとシティ全体はサンダースの取り組みに満足していて、ギネス社の株価は著しく上昇し始めました。
1985年ギネス社は、1978年に英国で最も売れていてブレンデッド・スコッチウイスキーの市場シェアの約35%を誇るベルズ・ブレンデッド・スコッチウイスキー(Bell’s blended scotch whisky)を所有するアーサー・ベル・アンド・サンズ社(Arthur Bell & Sons Ltd)に敵対的買収を開始し、激しい争奪戦の末5億1800万ドルで買収しました。そして翌年、DCLの買収に動きだしましたのはすでに書いた通りです。そしてスキャンダルを起こしてしまいます。
スキャンダルが続いた結果、ギネスの株価は下落してしまいます。さらなる下落を防ぐために、サンダースの後継者としてノーマン・マクファーレン卿(Sir Norman Macfarlane)が選ばれました。非の打ちどころのない高潔さを持つ彼は、両社の合併をめぐるスキャンダルの余波を片付ける任務を負いました。この役職がもたらす危険と世間の大きな注目を察知した奥様が、彼がその役職を受けるのを思いとどまらせようとしたそうですが、彼は「私たちはグレンイーグルス・ホテル(Gleneagles hotel:後日売却)を所有しているので、好きな時間にゴルフを楽しめます。そして、ゴードンジンも所有しているので、これで決まりです」と言ったそうです。また彼はデニス・サッチャー(Denis Thatcher)と親しく、その妻で当時の首相マーガレット・サッチャー(Prime Minister Margaret Thatcher)がギネスの厄介な役職を彼に依頼したそうです。彼はシティの信頼を勝ち取るだけでなく、社内のあらゆるレベルの士気を回復する上で重要な役割を果たしました。
またギネス社の新最高経営責任者にアンソニー・テナント(Anthony Tennant)も就任しました。彼は、1976年からGrand Metropolitan社のスピリッツ部門を担当し、ベイリーズ・アイリッシュ・クリーム(Bailey's Irish Cream)やピア・ドール・ワイン(Le Piat d'Or)などの新ブランドを導入するなど、財務および商業面での手腕を発揮した人で、彼が担当していた10年間で利益は急速に増加し、彼の評判はさらに高まりました。1987年ギネス社に入社した彼は、醸造だけに集中する計画を発表しました。最初の2年間は混沌としていたのですが、差し迫った緊急の必要性は現金を調達することでした。ギネス社の中核事業の一部ではなかった企業は売却され、セント・ジェームスのブキャナン社とジョン・ウォーカー社のオフィス、ヘイマーケットのデュワーハウスと蒸留所ハウスなど、さらにロンドン中心部のウイスキー王とその後継者が取得したセント・ジェームス広場の宮殿のような建物も売却されました。ある意味、この処分はDCLの文化を一掃するという新経営陣の決意の一部でした。さらに財務、管理、マーケティングをハマースミスのランドマーク・ハウスという1つの建物に統合しました。その上で保有していた株式を整理し、ショッピング機器のメーカーであるClares Equipment社は、手始めに2,850万ポンドで売却されました。
しかし売却だけではなく、その後数年間ギネス社は蒸留酒、ワイン、ビール会社の買収も続け、バックリーズ・ブリュワリー社(Buckley's Brewery: 1998年に閉鎖された200年続いたビールメーカー)、オール・ブランド・インポーターズ社(All Brand Importers)、シェンリー・カナダ社(Schenley Canada:シェンリー社はケンタッキー州ルイビルのI.W.ハーパー(I.W.Harper)を製造しているバーンハイム蒸留所(Bernheim distillery)とケンタッキー州コビントンのニューイングランド・ラム蒸留所(New England rum distillery)、同じくケンタッキー州のA.ディッケル社(A.Dickel:George Dickelブランドのカスケードホロー蒸溜所(Cascade hollow distillery)を買収していた会社)、J. コージー社(J. Cawsey)、およびカナダのビール販売業者であるライマックス社(Rymax Corp)を買収してます。また、フランスのモエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン社(Moet Hennessy Louis Vuitton :LVMH、コニャック、シャンパン、スコッチウイスキー、バッグ、香水のメーカー)の株式24%も買収しました。1991年、スペインのビールメーカー、ラ・クルス・デ・カンポSA社(La Cruz de Campo SA)の99.3パーセントの株式も買収してます。その後ジャマイカとオランダのデスノエス&ゲデス社(Desnoes & Geddes:レッド・ストライプ・ビール(Red Stripe)の会社)を1993年に買収しました。また始めたか、という感じですね。(この後の話はディアジオ社への道と題して続けていきます。)
さて第5回目の回想録でしたが、いかがでしたでしょうか。ギネス社についてかなりのスペースを費やしてしまいましたが、ギネス社につきましてはブランドとマーケティングについて日を改めて書く予定にしております。これからはディアジオ社へと会社を変貌させていく道程を改めてご案内してまいります。山本先生のようにかいつまんでは中々言えませんですね。これからまだまだディアジオ社につきましての回顧録は今後も続けていく所存でございますので、ご指摘等ございましたらどんどんお寄せいただきたいと思います。何卒今後とも宜しくお願い申し上げます。