「ローマの原罪*ディオニューソスの夢」1話 スキピオとグラックス
【1話】
ローマ建国紀元570年(キリスト紀元前184年)
元老院議事堂
失望した顔の53歳プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス。
彼を責めたてる51歳マルクス・ポルキウス・カトー。
「共和政に英雄はいらないのです」
賛同者がカトーの周りに集まる。
【ハンニバル戦争(第二次ポエニ戦争)に勝利したスキピオだったが、敵将ハンニバル・バルカを破ったザマの会戦から18年後、政敵カトーらは彼を弾劾裁判にかけるべきだと元老院※で訴えた】※定員300人
男が立ちあがる。
「拒否権を発動」
といったのはティベリウス・センプロニウス・グラックス。
カトーの演説が止まる。
グラックスは中央通路まで歩いていく。
「落ちついて下さい、カトーさん、それから最良の人々」
議長プブリウス・クラウディウス・プルケルを見やる。
「執政官※よ、私に話をさせてもらって構いませんか」※軍事と政治のトップじゃが、独裁をさけるため任期1年の定員2名じゃよ
熱気に包まれていた空気が静まる。
カトーは考える。
(このまま続けても白けるだけか)
「……護民官の言う通り、少しばかり熱中しすぎたようだ。気づかせてくれて感謝するよ、グラックスくん、君に時間を譲ろう」
カトーは席に戻る。
(好きに喋るといい。今年度の護民官としてこちらも拒否権を行使できる。意見を通すには元老院の支持を得ねばならん。この空気は覆せまい)
グラックスはカトーの周りに集まる議員らを見回す。
「貴き父達よ、新しい人々よ、諸君はハンニバルの恐怖を憶えているだろうか。始まりは彼スキピオの父とロングスが執政官の年(前218年)、ハンニバルはポエニ(カルタゴ)から傭兵含む歩兵と騎兵数万と戦象三十余をひきつれ、不可能と思われたアルプス越えを果たし、イタリアに侵攻した。ローマは執政官を相次いで送ったが、彼らの率いる軍団はハンニバルを前に連敗を喫した。元老院は非常事態宣言を発令し、ローマの盾ファビウスを独裁官※に任じた」※任期は半年じゃ
「彼の持久戦略はハンニバルを足止めしたが、その焦土作戦には批判が多く、独裁官を降ろされ、新たな執政官ウァロは正反対の積極戦略をとった。そしてハンニバルと交戦した地が……そう、カンナエです。我らはカンナエの会戦で五万人以上を喪った。元老院議員の四分の一も喪った。勢いづいたハンニバルは我らの同盟市を離反させようとしたが、ファビウスの持久戦略とローマの剣マルケルスが彼らをイタリアに留めた。その間にローマを反転攻勢に導いた人物は誰であったか。ザマの会戦でハンニバルを打ち破ったのは」
立ち位置を変え、議員らの視線をスキピオの方に誘導。
「神々より守られ、我らが祖国のためにあれほど偉大な貢献をなし、ローマで最高の栄誉を勝ちとった人物が、人々から感謝と敬愛を捧げられた人物が、今、被告の席でさらし者にされようとしている。 演壇下の席にひきすえられ、弾劾と批難を聴くよう強制され、心ない民衆の悪罵を浴びようとしている。 このような見世物は、アフリカの覇者の名誉を穢す以上に、我らローマ市民の名誉を穢す事になるのではないか」
静寂に足踏みを響かせ、視線をこちらに戻す。
「どうか今一度、汝自身で考えてほしい。護民官の立場から願う。思いだしてほしい、美しき共和政の誇りを、ローマの元老院と市民の誇りを」
スキピオ邸宅
「なぜ助けた」
臥台に座ってスキピオとグラックスは向かいあう。夜の部屋をオイルランプが照らす。
「君は私と政治的立場を異にするはず」
「私的感情を政治の場にもちだすべきではありません。今年度の護民官として元老院とローマ市民に対する義務を果たしたのみです」
スキピオの思案顔。
「……グラックスくん、確か独身だったね」
「え、あぁ……両親に決められて結婚した妻はいましたが、出産の時に……子供も皆、成人前に死んでしまって……」
「つらい事を思いださせてすまない。いや何、私がいいたかったのは、君と私の娘を婚約させないか、という事なのだ」
「スキピオさんの娘、と、私ですか」
「長女は従甥のナシカに嫁がせるが、末娘の相手が決まっていなくてね」
「それは、ちょっと……年齢差がありすぎませんか。確か五歳ほどでしょう」
「今年で六歳になった」
「二十歳差までならまだしも」
「君にしか頼めない。君が了承してくれねば娘は愚かな議員の愚かな息子と結婚せねばならん。それはわがスキピオ家の誇りが許さん。今の元老院には見込みのある男はいないのだ、君以外には。君に息子がいればよかったのだが」
「はは、買いかぶりすぎですよ」
ふくろうの鳴き声。
「私は本気だよ。娘の婚約者を決めておきたいのだ。つまらない貴族連中の息子などにやりたくないからな。私がローマを去るまでに」
「……ローマを去る」
「ああ」
グラックスは目をみはる。
「確かに弾劾裁判は免れた。だがカトーらの目的は私から栄誉を奪う事にある。君もわかっているだろう。ゆえに奴らは私と弟を不正受領の疑いで告発した。どちらも君に助けられたが、元老院での権威は大きく削がれた」
「なぜ貴方が去らねばならないのですか。ハンニバルを打ち破ったローマの英雄が」
「共和政に英雄はいらない……ローマはこの言葉に囚われている。ローマには失望した。共和政という言葉に縛られ、目的と手段が入れ替わっている事にも気づかない。硬直化しているのは奴らの頭だけではない、元老院の体制そのものも毒されている」
「元老院の体制が」
「ハンニバルに対して元老院は独裁官をすえる事でしか対応できなかった。政治機能が麻痺しているからだ。護るべき市民と無関係のしがらみに手足を絡めとられ、元老院にいる限り抜けだせない。すでに元老院では正しい政治が行えない。形のない不安に怯えるばかりで、無駄な事ばかりに資源を費やす。今のローマには暗い未来しかない。自らの怖れが自らを破壊するだろう」
視線が正面衝突。
「だが私は、君に光明を見た」
スキピオはランプを見る。
「君か、君の息子なら、ローマの未来を照らしてくれるかもしれない」
「……ランプのようにですか」
ランプの灯りは薄暗い。
「いいや、太陽のようにだ」
【スキピオはリテルヌム※の海が見える別荘に隠居し、翌年静かに息をひきとった】※イタリア南西部カンパニア地方の都市
【彼は父祖伝来の墳墓に入るのを拒否し、自らの墓石にこう刻むよう遺言した】
――恩知らずのわが祖国よ、お前がわが骨をもつことはないだろう
七歳のコルネリアが笑顔を咲かせ、会いにきたグラックスの胸に飛びこむ。
【奇しくも同年、ビテュニア※に亡命したハンニバルも自死した】※小アシア北西部の王国
「明日も遊べますか」
「ごめんね、サトゥルニア※植民市建設の三人委員会が忙しくて」※イタリア中北部
「……がんばりすぎちゃだめですよ」
グラックスはコルネリアの頭をなでる。
「ありがとう。だからこうして息抜きにくるんだ。君との時間はぼくにとっても大切だよ」
(無理強いはしたくない。だがスキピオの期待にも応えたい。ぼくにできるのはこの子に好かれるよう努力する事だけだ)
【二人の英雄と共に時代も息をひきとったかのようで】
背景にディオニューソス神のモザイク画。
【そして、新たな生命となって蘇る】
ローマ建国紀元582年(キリスト紀元前172年)
【グラックスは45歳、コルネリアは18歳を迎えた年に二人は結婚した】
ローマ建国紀元591年(キリスト紀元前163年)
【娘一人以外の子供を相次いで喪った二人だったが、グラックスの執政官再就任を祝福するように、ようやく健やかな息子が生まれた】
清めの儀式※で新生児にブラ(首飾り)をかける。※生誕後九日目(女子は八日目)に行う命名式じゃ
【ティベリウス・センプロニウス・グラックス。父の名をそのまま継承した※】※有名な父の息子は同じ名前の方が政務官選挙に有利なのじゃな
ローマ建国紀元600年(キリスト紀元前154年)
グラックス邸宅
「ローマとグラエキア(ギリシア)の神々は同じなんですか」
ティベリウス・センプロニウス・グラックス10歳※
※誕生年から9年じゃが、まだ0という概念がなく、年齢は誕生日から1歳と数えるのじゃ
コルネリア・スキピオニス・アフリカナ36歳は次男ガイウス1歳を膝上に抱える。
「神々の同一視はエトルリア人のローマ王タルクィニウス傲慢王が始めたの。傲慢王と共に王政が倒され、共和政が始まったのを記念して、最高統治機構になった元老院がその年の第七の月・満月の日※に、十二神の山に見立てたカピトリヌス丘のユピテル神殿にゼウス、ヘラ、アテナを三主神として奉納して」※紀元前509年9月13日
コルネリアは長男の顔を見る。
「どうしたの、不満そうな顔だけれど」
「……だって他の十二最高神はそうやって祀られてるのに、ぼくの推しは元老院に信仰制限されちゃってるから」
「ティベリウスの推しっていうと」
「ディオニューソス!」
「あぁ……」
ローマ建国紀元568年(キリスト紀元前186年)
バッカナリア事件
【その頃、エトルリア地方で活発だったバックス※信仰がローマにも広まった】※ディオニューソスの異名
【バックス祭の日はバックスの名の下、性別身分に関わらず無礼講を許される。信者は暴飲暴食、その他快楽を享受し、過激派は犯罪までした。快楽主義、自由主義の蔓延による共和政の崩壊を危惧した元老院は『バックス祭に関する元老院の法令』を発布。元老院に承認された場所以外でのバックス祭を禁じた。その年の執政官ピリップスとアルビヌスを筆頭に元老院は関係者を次々と捕らえ、穏健派を含め七千人もの命が処刑された】
「バックスって十二最高神にいたかしら」
「ディオニューソスね。ウェヌスが譲ってくれたんだよ」
「ああ、そういう話もあったわね」
母に見つめられる。
「どうしてバッ……ディオニューソスが好きなの」
「だって他の十二最高神は最初から神だもん。でもディオニューソスは違う。ゼウスの妻ヘラの嫉妬で、生まれる前に人間の母を殺されて、神の太腿から生まれ直して、人間として育てられて、地上にぶどう栽培を広めて、母セメレを冥府から救って、ヘラにも神と認められた。かっこいい! ぼくもディオニューソスみたいになるんだ」
母は微笑む。
「好きなものがあるのは善いことね。ママもディオニューソスは好きよ」
「ほんとっ」
「ええ、しがらみから自由で誠実な所がパパと似ているもの」
母に頭をなでられる。
「ティベリウス、あなたならきっとディオニューソスのようになれるわ」
慌ただしい足音。女奴隷が部屋に入ってきた。
「奥様っ、旦那様が」
ガイウスの泣き声。臥台に横たわる父。
ティベリウスと母がそばにつく。
「父上が倒れたって……」
大スキピオの養孫アエミリアヌスと婚約した姉センプロニアも駆けつけた。
父は寝たまま視線をやる。
「ああ、センプロニアも」
父は咳込む。
「こんな態勢ですまない、起きあがるのもしんどくて」
「そんな……間にあってよかったですわ」
「姉上……」
「ティベリウス、ほら泣かないの」
そういう姉も涙声になる。
「後悔のないよう生きてきたつもりだが、いざ死が近づくとあふれてくるものだな」
父は目をつむる。
「しかし老いとは、ハンニバルより恐ろしい。戦う事さえ許されないのだから。もう少し休息を多くしていればもう少し長生きできたかもしれない……ああ、ソクラテスはどうやってこの恐怖を乗り越えたのか。わが身よりわが信念を愛する、ソクラテスのように生きてきたつもりだが」
父は母を見る。
「コルネリア、私は君を幸せにできただろうか」
「……ええ、ええ、きっとわたくしはローマの誰より幸せでした」
「はは、大げさな所は血筋かな」
「大げさなんかじゃありません。謙遜したつもりですよ。本当は世界の誰より幸せです」
はは、と笑った後また咳込む。
「あなた……」
「ぼくも…楽しかったよ……ぼくは幸せ者だ。君と、娘と、息子達に、こうして囲まれて……ああ、何にも代えられない財産だ。こんな素晴らしいものを得られたのは、ソクラテスやプラトンのおかげかもしれない。彼らに感謝しなくては。彼らが正しき道を示してくれた。だから善く生きてこられた。汝自身に誠実に。汝自身の心を信じて生きたからこそ、あのスキピオに大切な娘を託された」
コルネリアを見る。
「そうして君と出逢えた」
センプロニア、ティベリウス、ガイウスを見る。
「君達と出逢えた」
ガイウスの泣き声。
「センプロニア、ティベリウス、それからガイウス」
泣き声がとまる。
「汝自身を知り、その心に恥じることなく生きろ」
ティベリウスは涙を落とす。
「父上……」
「ティベリウス、お前はこれから軍事や政治を司る側につくだろう。まだ教えたい事がたくさんあった。もっと時間を作ってやれなくてすまない。仕事ばかりで善い父親にはなれなかったかもしれない」
「……教えてほしい事、いっぱいあります。だから」
死なないで、という言葉を飲みこむ。
「グラックス家は、ぼくに任せてください」
父は目をつむったまま微笑んだ。
門にかけられた針葉樹の枝の葉冠。
木の枝に巻きつく蛇。
それらを見下ろす太陽に向かって白鳥が飛び立った。
執政官を二度務めた父の公葬には多くの人が参加した。白い装束を着た遺体はまず中央広場に運ばれ、未亡人コルネリアが弔辞を捧げた。
竪琴や哀歌を奏でながら、葬送行進が城門を抜ける。
火葬場、台にのせられたままの遺体の周りに祭壇型に薪が集められ、琴座の見下ろす夜に松明の火が輝く。
それを見つめる母と姉とティベリウス。
ティベリウスと母は決意の眼差し。
(父上、ぼくが必ず)
「わたくしが必ず」
(グラックスの家名を)
「ティベリウスとガイウスを」
(未来永劫語り継がれるぐらい輝かせてみせる)
「あなた以上の立派な子に育ててみせます」
翌年
【ヌマンティア戦争勃発。元日の執政官就任式が開戦の月・満月の日(3月15日)では軍団編成が間にあわず、開戦の月に準備完了できるよう元日が境界の月・新月の日(1月1日)に変更された】
「コルネリア・スキピオニス・アフリカナさん、どうか私と結婚していただけませんか」
「ごめんなさい」
【英雄スキピオの娘でもあるコルネリアには多くの再婚話がもちかけられた】
「私と結婚した暁には」
「ごめんなさい」
「わたくしの息子とぜひ」
「ごめんなさいね」
「余はプトレマイオス朝エジプトの王である。そなたを王妃として迎えたい」
「お断り申しあげますわ」
「何故であるかっ」
「息子達との時間を大切にしたいのです」
婦人会
「王妃の話もお断りしてしまったのですか」
「ええ、まあ」
「もったいない。わたくしなら即答で夫と別れますのに」
「わたくしも」
笑いが起こる。
「アフリカナさん、本当によかったの」
「王妃になった所で世界が善くなるわけではありませんからね。それよりも子供が大事ですわ。子は母の胎内で育つだけでなく、母のとりしきる食卓の会話でも育つのです。ローマ人はグラエキア人以外を蛮人とよび、自らを文化人と称しているにも関わらず、両親の存在を軽視してます。両親……特に母親との関わりが子供に道を教えるのです。そして子供とは世界の未来そのものです。わたくしは彼らの障害にならぬよう、母親として最善の道を示しながら、一つの道に拘束する事なく、多くの可能性を選択できるようにしてあげたい」
わかったようなわからないような顔をされる。
「まあそうね、アフリカナさんは地位や財産にご興味はなさそうだもの」
「宝石などはおつけなさらないの。せっかくオッピウスの贅沢禁止法が解除されて女でも自由に装飾品を着飾るようになったのに」
「あら、わたくしも宝石はもっていますわ」
彼女らはコルネリアを見るが、装飾品は見あたらない。
コルネリアは外で遊ぶ息子二人を見つめる。
「あれがわたくしの宝石です」
ローマ建国紀元603年(キリスト紀元前151年)
今年の執政官ルキウス・リキニウス・ルクルスは事務室で悩んでいた。
【三十年前のケルティベリア戦争後、ケルティベリア人※はローマに城郭都市の建設を禁じられたが、勢力を増した都市セゲダが周辺の町に城壁を築き、条約違反を理由にローマはヌマンティア戦争(第二次ケルティベリア戦争)を始めた】※ヒスパニア半島のケルト系諸族
(去年、三度目の執政官に就任したマルケルスはケルティベリア人と講和したが、元老院は戦争継続を決めた。マルケルスがその命令を拒否したおかげで今年の執政官として俺に軍指揮権が与えられた。名誉と資産を増やす機会だってのに)
「どいつもこいつも臆病者が。青年隊※に登録されたら従軍するのが市民の義務だろ。ローマの誇りを穢しやがって」※17〜46歳の資産階級。全35選挙区の抽選で決定した区に所属する青年隊がその年の軍団兵となるのじゃ
(増援軍の数を確保できねえから兵の配属をこっちで勝手にふりわけた。仕方ねえ事なのに、徴兵に協力してくれた同僚執政官アルビヌスと俺は告訴され、牢獄にぶちこまれた。兵の配属はくじ引きで決まる事になったが)
「人数が足りねえんだから出発できないだろうが、クソ」
部屋の前に奴隷がきた。
「あの」
「ああ?」
「お、お客様がお見えです」
応接間にいたのは三十代の男。
「何の用件だ」
ルクルスの言葉に男がふりむく。
「執政官よ、私に副総督か軍団将校の地位を頂けますか」
「……お前は」
「私が率先すれば及び腰の青年隊も集まるでしょう」
大スキピオの養孫スキピオ・アエミリアヌスが手をさしのべた。
同年
カルタゴ建国紀元663年
カルタゴ将軍ハスドルバルが演壇に立って群衆を見回す。
「わが祖国の英雄ハンニバルが敗れてから、我らはローマに無許可の軍事行動を禁じられた。ローマの同盟国ヌミディアは姑息にもその条約を利用し、カルタゴを襲撃し、今日まで略奪行為をくり返してきた。状況の改善や軍事行動の許可を求めても、ローマは要請を拒否し続けた」
悔しげな市民達。
「カルタゴ市民諸君! 我らの誇りを思いだせ! ローマなど、カルタゴの60年も後に建国され、アテナイやスパルタが猛威を奮っていた時代には田舎の弱小国だった。それに比べてカルタゴはどうか。ソクラテスやペリクレスの生まれるより前からヘラス(ギリシア)の諸都市や海賊共が恐れ慄く海軍力を有し、シチリア島からフェニキアやオリエント、地中海の島々を支配し、多くの植民市を建てた。アテナイやスパルタが勢力を失ってからも強国であり続けた」
群衆の瞳に感情が灯り始める。
「王位独占を目論んだ兄ピュグマリオンに、守護神を祀る神官の夫シュカイオスを暗殺されたテュロス※の女王エリッサが、祖国を去ってカルタゴを建国してから663年。その歴史が今、拡大主義の悪しき国家によって滅ぼされようとしている。我らが愛する祖国が、愛する家族が殺され、奪われ、蹂躙されている」※フェニキア人都市
怒りが感染していく。
「カルタゴ市民諸君! 黙って滅ぼされるのを待つばかりでいいのか! ローマの悪虐を許していていいのか!」
いいわけがねえ、ローマを許すな、と群衆が応える。民衆の声が一方向に集まり、熱気の中でハスドルバルは叫んだ。
「今こそ決起の時だ!」
「オオオオオ」
【カルタゴはローマとの講和条約を破り、ハスドルバル率いる25400の軍をヌミディアに侵攻させた。が、オロスコパの会戦でカルタゴ軍は大敗。兵士のほとんどがヌミディア人に虐殺され、ハスドルバルは少数の将校と祖国に逃げ帰った】
夕暮れのローマ。
「あ、ムキアヌスくん」
議員クィントゥス・ファビウス・マクシムスは帰路に知りあいのプブリウス・リキニウス・クラッスス・ムキアヌスを見つけた。
「元老院に来てなかったね」
「それは」
「今日は重大な事が話しあわれたよ。これまで「ポエニは滅ぶべき」のカトー派と「ポエニは存続すべき」のナシカ※派で議論が平行線だったが、ポエニの条約違反が元老院の大多数をカトー派に傾けさせた」※スキピオ・ナシカ・コルクルム。大スキピオの従甥じゃ
「あの」
「ポエニの不正な軍事行動を口実に遠征準備を進めるという秘密令が」
「私まだ元老院の席をもらってないんですけど」
「……え……でも去年会計検査官やってたじゃん。任期後の今年から元老院階級に昇進したでしょ」
「議席に空きがないらしくて……遅れてるんです」
「……俺なんかやっちゃいました?」
【秘密令を漏洩したファビウスに元老院は問責決議を下す】
翌年夏
カルタゴ百人会
「では、これが総意という事で」
決議案をハンノ執政官が発する。
「ハスドルバル将軍及びカルタロ副将軍に死刑判決を下す」
険しい表情のハンノ。
(ローマよ、これで止まってくれ……)
ヌミディア王マシニッサ89歳は王宮殿の椅子にもたれる。
野鳥の鳴き声。
ハンニバル戦時中のスキピオの勇姿が蘇る。
(あの頃はわしも遊牧民族として縦横無尽に戦えた)
もう思うように体は動かない。
(婚約者を奪った憎きカルタゴとマサエシュリの王に復讐できたのも、ヌミディアを統一できたのも、彼のおかげ……カルタゴを平和裏に併合できなかったのは悔まれるが……)
馬がいなないた。鳥がいっせいに飛び去る。
家臣が部屋にくる。
「王よ」
「……何の騒ぎだ」
「ヒスパニア半島からローマ軍の使者です。総督ルクルスから遣わされた副総督プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌスと」
王座の間で使者を迎えた。
「歓迎するぞ、アエミリアヌスよ」
「ご健勝で何よりです、王マシニッサ」
「今さっきちょうどわが盟友の事を思いだしていた。或いは喚ばれておるのかもな……これも地母神の導きだろう。わしも先が長くない。今夜はお前のために盛大な晩餐会を開こう」
「王、私は」
「無論承知しておる。ローマの友国として、スキピオの友として、騎兵2200を援軍にやろう。わしはもう戦場に立てぬが、わが配下ヒミルコ・ファメアスを騎兵隊長とするがよい」
「ご配慮有り難く。王のご好意も謹んで賜りたく存じます」
「よし、今から準備させよう」
翌ローマ建国紀元605年(キリスト紀元前149年)
【カルタゴから37マイル※北の港湾都市ウティカがローマに寝返った。元老院はこの港を攻撃拠点とし、カルタゴに宣戦布告した。第三次ポエニ戦争の勃発である】※約55キロ
【スキピオはマニリウス執政官の下で活躍。カトーはスキピオを「彼だけが生きている。他はゆらめく影だ」と称賛し、その数月後に死去。享年86歳】
翌年
【床に臥したマシニッサ王は「スキピオ・アエミリアヌスに看取ってもらいたい」と使節を送るが、スキピオが到着したのはマシニッサの死から二日後だった】
スキピオの前に亡き王の息子ミキプサ、グルッサ、マスタナバルが集まる。
「父上は、ローマ人とスキピオ家に従うように、と」
「遺言に従って保護者を承ります」
スキピオは新体制を考案。
「ヌミディアを三つの小王国に分け、三人それぞれ王に就くというのは如何でしょうか。正式な王権は長子のミキプサ様に。グルッサ様には騎兵隊長として援軍を願いたく」
翌ローマ建国紀元607年(キリスト紀元前147年)
【スキピオは異例の若さで執政官に就任】
開戦の月・新月の日(3月1日)
中央広場でスキピオが聖槍をふる。
「起きよ、軍神マルスよ、征け」
【アフリカでの軍指揮権を付与され、ポエニ遠征軍の総督として開戦宣言を執り行った】
最初に無限が在り
光明神の中に時間神と運命神が卵を生み
そこから発した顕現神が原初の神として宇宙創世を成し
力の主神として王権を築いた
娘の夜神が王笏を与り
次に天空神
農耕神が継承
頂上大戦でゼウス率いる十二神がクロノス率いる巨神族から王位を奪った
狩猟神を食らった巨神族をゼウスの雷霆が滅ぼし
その灰から生まれたのが第五の種族
ザグレウスの心臓は智慧の処女神が救ってゼウスに渡した
その子ディオニューソスは母亡き後
ゼウスの太腿からザグレウスの心臓をもって生まれた
おお三生神ディオニューソス
第五の種族には
自由解放神の不死性を有す霊魂と
巨神族の原罪で穢れた肉体が内在し
肉体は牢獄として霊魂を因果応報の輪廻に縛る
そんなゼウスの世は多様性に満ち
不完全な自由に支配された渾沌時代
原初の人類はパネスに創られた黄金の種族
パネスは始源の光であり
その輝きから世界が生まれた
おお創造主にして太陽神
その転生した姿こそ再誕神ディオニューソス
新生ディオニューソスが六番目の王権を継ぐ時
世界は再び黄金時代となりて
霊魂は肉体より飛び立ち
真の自由が蘇る
――オルフェウス叙事詩『神統記』より
出発準備を整えた遠征軍。
馬がとまる。
スキピオが笑む。
「おお、よくきた」
17歳の少年は下馬し、将校らの前で敬礼。
「今日からお世話になります、ティベリウス・センプロニウス・グラックスです」