自分の意思を捨てたら楽になった話ー精神的な自殺ー

私は小学生の頃から自殺願望があった。学校を休んで、雨に打たれながら死にたいと考えた。
私は26歳の日本人。数年前から安楽死を望んでいた。母子家庭育ち。高校と大学を中退した。今は他の大学で学んでいて、もうすぐ卒業する。私はいわゆる躁鬱で、躁状態の時は、とても活動的で、鬱状態になると、自殺願望を感じて無気力になる。私の鬱状態は、体調不良で起こる事もあれば、ある出来事がトリガーとなる事もある。今回のトリガーは婚約者との破局。私は結婚を約束していた相手がいた。しかし、私と彼は別れる事になった。鬱になり無気力になった私は、精神的な自殺をした。それは、私の心を救い、人生を変えた。死にたいけれど、自殺する勇気や、海外で安楽死する勇気がでない自殺願望者達の心が少しでも救われ、いつか死ぬ時、もしくは、生き続けると決めた時に、私のこのブログが助けになればいいと思う。

精神的な自殺とは?

精神的な自殺とは自分の意思をなくす事だ。「あれが食べたい」「眠りたい」「誰かと喋りたい」「誰かに抱きしめてほしい」「成功したい」「勝ちたい」などは私達の欲求だ。この欲求に応えないようにする。 その代わりに、未来の自分のために行動する。例えば、ダイエットしたいけれど、食欲が湧いて食べてしまう。これは私達の食べたいという欲求に従うからだ。私は食べたいと思った時に、「私はもう死んでる。私の食べたいという欲求に従う必要はない。未来の私は痩せてる方が助かるだろう。」と考える事で、食欲を抑制できた。大学の課題をやっていた時は、もう休みたい、ゲームをして遊びたいと、集中力が下がった。私はこう考えてみた。「この課題を素早く終わらせれば、未来の自分に役に立ちそうなスキルを学ぶ時間も作れる。そのように毎日生産的に、過ごせば未来の自分は少しでも生きやすいだろう。休みたいのも、ゲームをしたいのも、私の欲求だ。私は死んだ。従う必要はない。」このように考える事で、いつもダラダラやっていた課題を素早く終わらせ、未来の自分のためにやるべき事に集中できた。上記の例でみたように、自分の精神が死んだ事を受け入れて、自分は未来の自分のために尽くしている存在であるという認識にする事が、私が考える精神的な自殺だ。

未来の自分とは?

未来の自分は明日の自分や10年後の自分だと考えている。今の私は生きる気力がなく、全てに意味がなく感じている。しかし、人の気分は変わる。特に躁鬱の人間は気分によって、考え方が真逆になる事もある。明日の私は、10年後の私は、生きる事に精力的かもしれないし、死んでいるかもしれないし、死のうとしてるかもしれない。私は未来の私のサポーターだ私は今を生きていない。私は死んだから。いつか目覚める未来の自分のために、私が今の私のためでなく、未来の自分のために努力する。私は今の自分と未来の自分をほとんど別の存在と認識している。例えるならば、やりこんで環境を整えたソーシャルゲームのアカウントを、未来の自分に渡すようなものだ。代わりに、アイテムを揃え、レベルを上げ、居心地の良い環境を整える、それを未来の自分が使う。誰も愛せなかった、誰かのために生きられなかった私が、未来の自分のために、頑張ろうと思えた。それはまるで、子供を愛する親の心のようだった。
「この子のために私が頑張らないといけない。」「私がこの子を幸せにするんだ。」
気力が滝のように湧いてきた。集中できた。多くの人は自分のためではなく、誰かのための方が努力できるのかもしれない。

投稿主は今幸せなのか?

私は今幸せです。未来の自分という我が子のために、毎日努力している。食べるのを我慢する事、勉強してスキルをつける事、他人と交流して良い環境を作る事、我が子のための努力が全て愛おしい。胸が暖かくなって、1人じゃないと思えて、心が愛であふれてるように感じる。他人を愛そうとするのとは違う感覚
この多幸感。
私達自殺願望者達は、自分の人生に価値がないと思っている。だから無気力なんだ。
生きたいと思ってる人達は自分達の人生に価値があると思ってる。
私達が彼らのようになるのは難しい
でも、私のように精神的自殺をして、未来の自分という我が子のためだけに判断し、行動するようになれば、私達のあの苦しみから解放されて、あたかも自殺願望がない人達のように生きられるかもしれない。もしかしたら、それ以上に。

私達は孤独だ。私達を好きだと、愛してると言った友人や恋人は、いつ私達の前からいなくなるかわからない。私達を一時的に愛してくれる人たちもいるかもしれないし、いないかもしれない。拒絶されるかもしれない。でも私達は死んでいる。もう、誰かに愛されたいとか、認められたいと思う必要はない。未来の自分のために生きればいい。今を生きなくていい

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