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脳梗塞になりました。その2

発症は昨年(2023年)11月5日。その日の慌てぶりはここで書いた。

「つづく」で、また次を書くつもりだったのに、そのまま放置して、そろそろ3カ月半くらい?
その間、発症から1カ月、2カ月と時系列の報告はあげたものの、肝心の入院後のことが書けていない。
ということで、なくなりそうな記憶を辿り辿り書いていきます。

と、書いたまま、またまた放置してさらに3、4ヶ月が経ってしまった。

自分のために書く! 生きるために書く!なんて大袈裟な気持ちで立ち上げたノートも丸3ヶ月は放置状態。
これが私だ! 
と、開き直ってみる。

連日の酷暑で外に出る気にもなれず、グダグダと家にいてフレイル目前。これでは脳梗塞ではない原因で寝たきりになっちゃうぞ! と、自分を脅かしつつオリンピック中継にうつつを抜かしている。

怠惰だけれど、元気ではある。特に落ち込んでいるわけでもない。

相変わらず疲れると口が回らなくなるし、言葉が出にくくなるし、ではあるものの、ありがたいことにこの間、何本か仕事をいただいて、かなり時間をいただきつつもどうにかこうにか形にしてきた。
仕事の後の脱力感は、以前とは比べようもないけれども、それでも仕事がある幸せは何にも代え難いものだったのだなぁと今さらながら身に染みている。いつまで使っていただけるのか予想もつかないけれど、出来る限り頑張ってみるしかない。
そろそろキーボードが壊れそうだし、ここへきてついにローマ字変換デビューなのかという恐怖にさらされつつも何とか続けていくしかないだろう。

言葉が出にくいはずなのになんとなーく原稿はできるから不思議だ。集中できると言葉も出てきているということかな。たわいのないことを話そうとすると、出てこなくてイラッとすることを考えると、集中して何か書いたほうがやはりリハビリになるのかもしれない。

この間、長年いろいろとお世話になっていた女性が脳出血で入院された。一度、お見舞いに行ったが、左半身に麻痺が残り苦労されていた。頑張ってというのは簡単だけれど、すぐにメゲて、できなくなったことを数えて考えがちな私だったら耐えられただろうか。

私が脳梗塞で入院した部屋は、急性期ということもあってナースセンターに近い角部屋で、ベッドの間隔も広い4人部屋だった。
ずっとカーテンが引かれたままだったから全くわからなかったが、他の3人の方は自力では動けず、食事もままならない状態の方ばかりだったと思う。年齢もかなり高齢だったと思う。

すぐ隣のベッドの人はずっと大いびきで寝ていて、時々呼吸も止まっているようだった。看護師さんの呼びかけにも答える様子はまったくない。真夜中にベッドシーツを交換したり着替えさせたりということが何度かあって、意識はまったくなさそうだ。
いびきの大きさ、声の高さから、おじいさんのようでもあった。でも、さすがに男女同じ部屋ってこともないだろう。

私がその部屋の4人目の患者だったわけだが、入って2日後くらいに、お隣さんの家族の方が面会に来て、大きな声で呼びかけていた。

「おとうさん! 〇〇よ。わかる? おとうさん!」

やっぱりか、、、、。

脳卒中部屋に男女のべつなし! ナースステーション近くの部屋数は限られているし、自力で動けない患者ならば何か問題が起きるわけでもないのだろうけれど、一言、説明があってもなーとも思った。
いや、言われたらやっぱり嫌な気分になったろうか。この部屋にはいられないと思ったろうか。

入って右がそのおじいさん。左はおばあさんだった。
食事のたびに看護師さんが大きな声で、少しでも食べるように一生懸命促していたけれど、何も食べないようだった。車椅子でリハビリに出たり、食事の時はベッドに座らされていたので、私も多少自力で動けるようになるとカーテンの隙間から目が合うようなこともあったけれど、無表情で何も反応してくれなかった。

入院3日目あたりで別の施設に移っていくらようだった。ケアマネジャーさんのような人たちが来て、洋服を着たままストレッチャーにしっかりと固定される感じで病室を出て行った。家族らしい方は誰も来ていなかった。

私のベッドは窓側だったが、反対側の窓側の人も何も話さないし、何も食べない寝たきりの人だったと思う。理学療法士の方が来てベッド上でリハビリをしていたようだった。部屋を移動することはなかったと思う。

とにかくノーコンタクト。脳卒中ケアと書かれた部屋にはそういう患者さんが多いということだろうか。

入院2日目、いや、3日の夜だったか、真夜中に隣の部屋から絶叫が響いて、なかなか泣き止まれなかったのにはまいった。

「○❌▶︎△さん!」「どうしてこんな」「嫌だーーー」「&;/&?&”@;:%$#£いやよ、こんなのー」「✖️⬜︎○△$#だったじゃないのよー」
聞き取りたくもないのだけれど、胸がつぶれそうで、眠ることもできない悲鳴と恨みごとの絶叫がいつまでもいつまでも続いた。

脳神経外科病棟とはそういう場所なのだ。生きていることに感謝しなければ。

4日ほどその病室にいて、最後の2〜3日間はもう少し症状の軽い人たちの部屋に移動した。軽いと言ってもみなさん、脳関係の病気で入院されているわけで、やはりカーテンは閉め切ったままのノーコンタクトではあったけれども、窓際のもう1人の方とは少し話した。
外国人だった。カーテンの隙間から、窓枠にかけた足が見え、大きな人だなと思っていたが、トイレから戻ってくる時か何かで顔を合わせた。
南米系の国の方で、仕事で日本に来ていて、検査のために入院したというようなことを言ってたっけな。
私より先に退院して行った。
私も早々に退院した。

食事はびっくりするほど美味しかったし、以前、1型糖尿病発症時に入院した時は、まったく理解のなかった糖質制限についても、病院食で選べるようになっていた。
糖質に関してはこの10年で本当に世の中の考え方が変わったと思う。
当時、糖質制限を鼻で笑っていた私の担当医は部長先生に出世していた。

ベッド間も広くて、しっかりしたクローゼットもついていて入院環境は最高だったけれども、これほど早く退院したかったこともない。隣の人のいびきやら深夜の点滴交換やら、ベッドシーツやパジャマの交換やらで、夜はほとんど眠れなかったし、この先、万が一再発してしまった時の自分の姿がリアルに想像できてしまうのが辛かった。

あの方たちには申し訳ないけれど、こんなふうにはなりたくないとやはり思う。しっかりしなければ。自分を律して、規則正しい生活しなければどうなるかわからないぞ。そう思い、それまでの自堕落な暮らしを反省したつもりになっていたが、セッセと散歩をしたり運動したりしてリハビリに務めたのも結局、3ヶ月程度だった。あるとき急に気が抜けて、再びグダグダ生活に逆戻りだ。

情けない。
が、これが私なのだ。
気をつけていたって、なる時はなるんだよ、みたいな自暴自棄。
あ、でも、禁煙は続いてまっせ!

真夏の散歩はなかなか厳しい
朝7時でもこの日差し
今日の東京は37.3℃だったそーです



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ぷれこ
まあまあ、こんな駄文にチップとは。俄然、やる気に拍車がかかります。一度書いてアップしたものでも実は何度も読み返し、読み返すたびに加筆、訂正、写真を挿入してみたりと絶えず変動しているものもございます。100%に近づけたくて悪戦苦闘しています。いただいたチップでホッと一息できそうな