タイピスト3
A氏は思い悩んでいたが、迂闊に職場や友人、ましてや家庭内では話せない。
悶々とした日々を送る中、夏になり、A氏は家族と彼の実家へ帰省することになった。
帰省したおり、自分の部屋に息子を寝かせることになって、A氏は久々に自分の部屋へ入った。
そして、窓を閉め切った暗い部屋へ入った瞬間、A氏はあのカタカタという音を幼少期も聞いたことをふいに思い出した。
そして急に思い出が追いかけてくるように蘇った。
あれはカブトムシが死んだ日の夜だった。
幼少期、音を初めて聞いた前日に、A氏は父親と山に行き、カブトムシの大きな雌を捕まえた。
虫かごに入れて玄関に置いておいたのだが、翌朝起きるとカブトムシの雌は虫かごから逃げ出して、玄関の土間でひっくり返って死んでいたのである。
幼いA氏が「なんで虫かごから出たんだろう」と彼の父親に聞くと、父親は「雌だから何が何でも卵を産もうと必死に逃げ出したんだろう」と言った。
A氏は激しくすまないと思った。
そうだ。はじめてカタカタという音を聞いたのは、その夜のことであった。
しかしその時は、父親か母親がまだ起きていたため、その生活音だろうと彼は思っていた。
----------ということは、あれからずっとあの音がしているのか。