幾重綾子

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俺は、絶対!渋谷第三ビルへ行きたい!2

 AIが発達して、社会生活における身体の優劣は昔ほどではない。  加えて、今まで社会に出れなかった優秀な身体障害を抱えた人材が社会へ進出し、今や富裕層のおよそ7割は何らかの障害を抱える人々だ。  健常者かつ能力が並みな俺みたいな人材は、林業、建設、下水道点検など身体を使う過酷労働のような仕事しかない。  在宅ワークやリモートワークは、時短なら健常者にも働き口があるが、フルタイムとなると、身体に優劣なく、優秀な人材から埋まっていく。  今、俺を追い越していった人たちも、きっと

    • 俺は、絶対!渋谷第三ビルへ行きたい!

       明日は7時に目覚ましを掛けよう。  面接だ。  渋谷に15時。  早く、起きすぎだろって思ったんだろ。  甘いな。    4023年10月5日、朝7時。  ジ、ジ、ジ、ジ、ジ♪ アラームが鳴る。  「パワーオン」 俺の部屋のAIも起きる。  ウェットシートで顔を拭いて、WAXが出る櫛で髪を撫でる。  アイロンクローゼットから、スーツをライダースーツの様に、足と袖を通してチャックを上げる。  最後にぶらんとしているネクタイの結び目をパチッと止めればバッチリ。  俺は外を見

      • タイピスト5

         問題は相変わらず問題として、A氏の頭の中に鎮座していたし、カタカタという音は続いていた。  A氏は、考えの方向を変えて、声を思い出そうとしてみた。  しかし思い出そうとすると声色が思い出せない。  子供のような声にも思え、おじさんの声にも思えた。  次に声が言った内容について考えてみた。声が言った意味というか、何故そう言ったのか、あるいは何故そう自分が言わせたのか。  しかしどれも、考えても考えても答えは出なかった。  時が流れて、A氏が50を迎えたとき。  不意に

        • タイピスト4

           A氏は益々思い悩んだ。  そして家へ帰る前日の夜、ついに勇気を出して父親へ打ち明けた。  父親は、しばらく沈黙したのち、「うん。俺もある」と言った。 父は真面目な顔で、自分も少年時代にその音を聞いたことがあるという。   少年期から大学生頃まで続き、その頃は自分もしごく気にしていたという。 しかも中学生くらいの頃に変なことがあったと言った。  夜やはりカタカタと音がし、ふと止まったのだという。  不思議に思って目を開けると、そこは家の自分の部屋ではなく、何もかもが真っ

          タイピスト3

           A氏は思い悩んでいたが、迂闊に職場や友人、ましてや家庭内では話せない。  悶々とした日々を送る中、夏になり、A氏は家族と彼の実家へ帰省することになった。  帰省したおり、自分の部屋に息子を寝かせることになって、A氏は久々に自分の部屋へ入った。  そして、窓を閉め切った暗い部屋へ入った瞬間、A氏はあのカタカタという音を幼少期も聞いたことをふいに思い出した。  そして急に思い出が追いかけてくるように蘇った。  あれはカブトムシが死んだ日の夜だった。    幼少期、音を初め

          タイピスト3

          タイピスト2

           そしてある晩、A氏がやはり寝ている時、カタッと普段より少し大きな音が一度し、「ああこれは」と声がした。  はっと覚醒したが、カタカタという音は消えていた。  「ああこれは」とは何か。少し嘲笑するようでもあった。  益々気になる。  A氏は昼間ずっとこの音の問題について考えたが、結論は出なかった。  そしてまたある日、「なるほど」と頷くように声がした。  本当に小人がいるんだろうか。  A氏はこの奇抜な考えを一時的に受け入れることにした。どんな不条理も飛び越えて、今はこ

          タイピスト2

          タイピスト1

           ある日A氏が寝ていると、しきりにどこかからカタカタと音がする。  耳を澄ましている内に目が覚めてしまい、寝返りをうって時計を見た。  午前2時だ。  まるで耳元で誰かがタイピングしているようだ。そして時々、正にタイプライターの行を変えるが如く、ガタッと大きな音がする。 そうだ、これはタイプライターの音だと、A氏は思った。  しかしA氏は1990年生まれであるから、タイプライターの音など実際は聞いたことがない。だから、本当にタイプライターの音かA氏に分かるはずもない。  

          タイピスト1

          喫茶店と羊と男

           ある観光地に見晴らしのいい喫茶店がある。  そのテラス席からは、青々とした草地がせり上がるようにして広がっているのが見える。途切れた草地の稜線の向こうに、寒々とした剣のような山頂が望める。  男の一人がコーヒーをすすりながら、「なんと牧歌的な景色だったろう」とつぶやく。  すると、隣の男が、「まさか。まるで日常を見ているようだ」といぶかる。  さて、二人の男が見ていた草地には、羊飼いと数十頭の羊がいた。羊は、羊飼いの後をついて歩き、つかの間、散り散りになって、各々、食事を

          喫茶店と羊と男