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人生で一番泣いた日

8月22日は父の命日だ。
私の父は、朝突然体調不良を訴えて倒れ、意識不明のまま手術を受けたが、その後も目を覚ますことなく、亡くなった。
病室で姉と母と、声が枯れるまで叫び泣き続けたことを今も鮮明に覚えている。

夏休みが始まってまもないある日の朝、わたしは母からのLINE電話で目を覚ました。
「いい?しっかり聞いて。お父さんが、くも膜下出血で倒れて病院に運ばれたの。今病院で手術をしているところ。とりあえず、それだけ伝えるから。」
電話口の母の声は不自然なほどに落ち着いていた。
医学部6年生だった私にとって、「くも膜下出血」で「手術」をすぐしなければならない状況というのが、どれほど深刻な状況なのか想像することは容易だった。私は午後に予定していたアルバイトをキャンセルし、無心で帰省の準備を始めた。医学部6年生の8月は、就職試験に始まり、月末には卒業試験が控えており、国家試験前の一つの山場のような時期だった。そんな8月が始まって間もなく、人生最大の試練が訪れるとは。
車で実家に向かう途中、私は大声で泣きながら「神様は意地悪だなぁ」と呟いた。運転中に泣くなんて初めてで、危ないから涙を止めたいのに全く止まらなくて、必死に実家までの数百キロを運転した。
思えば車で帰省するのは数回しか経験したことがなく、しかも毎回父が新幹線で近くの駅まで来てくれて一緒に乗ってくれていた。父との思い出の道を、父を思いながら、精一杯祈りながら運転した。実家に着くまで数時間はかかるが、道中何を考えていたのか、祈っていた以外の記憶はほとんどない。

実家に着いてすぐ、姉と共に父のいる病院に向かった。2人とも大のお父さんっ子だったので、姉と顔を見合わせた瞬間、失うかもしれないものの大きさを再確認して絶望した。急いで向かう車の中で姉はBTSの"Permission to Dance"を永遠に流してくれた。2人で大声で歌うと明るい気持ちになれた。でもやっぱり、曲が終わるとすぐに現実を思い出し、絶望が押し寄せて泣いてしまった。病院に着くと裏口に案内され、待合室に通された。コロナ禍で面会の制限があったが、父の容体のこともあり、家族は面会を許されていたのだった。待合室では、母が一人で座ってうつむいていた。
「脳の中で何ヶ所か出血しているって。」
手術前に画像と共に医師から伝えられたであろう父の容体を聞き、私はさらに絶望した。CT画像では、典型的なくも膜下出血で見られる出血の他に、私の目でも分かる程度の大きい出血が多数見られた。
(これは本当に厳しいのかもしれない。)
母の前では絶対にこんなことは言えないが、心の中でそう思い始めていた。このまま待合室で待つこともできたが、まだ手術が終わるまでは時間がかかりそうで、母も朝からずっと一人で待ち続けておかしくなりそうだったので、一旦姉に託して、2人で病院から離れることにした。

2021年8月は、東京オリンピックの真っ只中で、しかも父のいた病院の近くで、とある競技の試合が開催されていた。病院の周りはオリンピックムードで、TOKYO2020 のロゴマークをつけた関係者やスタッフ、観客が多く見られた。ここで初めて、日本でオリンピックをやっているという実感が湧いた。オリンピックムード漂う会場近くのスタバに行き、母と冷たいドリンクを飲んだ。スタバに贅沢なイメージがあった我が家では、なかなか家族で行くことがなく、その日も特別な時間に感じた。数時間ぶりに病院の外に出た母は何かから解放された表情で、いつも通り明るく「早く手術が終わって目を覚まして欲しいね」と言っていた。前向きな母といると私も前向きになり、「そうだね、治すための手術だもんね。時間がかかっても絶対目を覚ますよね。」と返した。

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猛暑日が続いていたこの頃、スタバから病院までの道は暑くて暑くて歩いているだけで汗が滲んだ。しかし、涼しい病院にいたからか、外の暑さが嬉しくて、生ぬるい風が心地よくて、少し気持ちが軽くなった。この日スタバで飲んだ抹茶ティーラテの味を、私は忘れることはないだろう。

病院に戻り、姉と母とこれからのことを話した。いつもしものことがあるか分からない状況だったので、なるべく近くにいたい、そう考えた私たちは近くのホテルを1泊予約した。「お父さんが真夜中に目を覚ましても駆けつけられるように」と願いを込めて、予約した。泊まるための荷物をとりに家に戻り、家事を軽く済ませ、ホテルにチェックインした。ソワソワしながらくつろいでいると、母の携帯が鳴った。
「手術を終えたお父さんの血圧がなかなか上がらないから、すぐ来てくださいって。」
私たちは急いで病院に向かい、そこで初めて倒れた後の父と対面した。手術で髪を剃られていた以外は、いつものソファで寝てるときの父と同じだった。
「お父さん、そんなところで寝てないで。」
そういうと「うるさいなぁ」と言いながら起きそうなくらい、いつもの父だった。
しかしモニターが示すバイタルサインはいわゆるショック状態で、現実を突きつけられた。私たちは血圧が上がりますように、と願いを込めて必死に父に想いを伝えた。感謝と愛の言葉を繰り返すと、だんだん血圧が上がってきた。目が開いてなくても耳は聞こえる、そうよく聞くが本当なのかもしれない。術後に理想と思われる血圧まで上昇し、私たちは面会を終えた。

面会の後、母が主治医から手術で何をしたか、説明を受けた。
そこでは、
・父のくも膜下出血の原因が「脳動静脈奇形」であること
・非常に珍しい病気で出血する確率も低い病気であること
・父の奇形は呼吸の中枢である延髄の近くにあったため、その機能が障害される可能性が高いこと
・予定していた血管の除去をすることはできたが、出血がひどく、脳を開けた瞬間飛び出てきたほどで、全ての出血を完全に止めることはできなかったこと
が伝えられた。
この時点で、医師の姉と医学生の私の2人は、「もう父が目を覚ますことはないかもしれない」と心の中で思っていた。

「血圧が安定してよかったね」「やっぱりみんなで声を掛ければお父さんも聞いてくれてるんだね」ホテルに向かって歩く足取りは、軽くなっていた。
部屋に着いて小腹を満たし、テレビをつけるとサッカーの試合をやっていた。準決勝は、王者スペインとの試合。「サッカーも勝って、いい流れくんで、お父さんも病気に勝って目を覚ますんだ!」そう言いながらみんなで観戦した。結果は0-1で日本の負け。決勝戦に進むことはできなかった。なんだか父のこともありすごく悲しい気持ちになったが、「銅メダルを期待しよう!きっとお父さんもその頃には目を覚ましてるし!」と言ってお互いを励ました。

いつ呼ばれるかわからないから、寝られるときにちゃんと寝よう、と言ってホテルのベッドに横になり、眠ろうとした。しかし、目をつぶると今日あったいろんなことが蘇ってきて、それと同時にいつ危篤になって呼ばれるかわからない恐怖が襲ってきて、全然眠れなかった。母は寝る前まで明るく振る舞っていたが時折り叫びに近い声を上げながら泣いていた。ホテルの窓から外を見ると、ビル街の夜景がやけに美しかった。早く平和な朝が来てほしい、と願いながら1時間おきにベッドから出て外を眺めた。
どうしても眠れなかった私と姉は、朝4時から外を眺め続け、父との思い出の写真を見返しながら朝を待った。
朝5時、太陽が上り始めた。ホテルの12階から眺める朝焼けは美しく、心洗われた。部屋の外の廊下を奥に行くと、大きな窓があった。ここから入る光は力強く、いい一日が始まると言い聞かせてくれるようだった。朝日が上る間ずっと照らされ続けていた廊下は、本当にとても眩しかった。

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父の容体は落ち着いているようで、夜中に電話が鳴ることはなかった。まだ油断はできない状況だったので、同じホテルにもう一泊泊まらせてもらうことにした。ホテル側の計らいで同じ部屋に滞在することができることになった。昼間に病院の近くの室内で快適に過ごすことができるのは本当にありがたかった。

そういえば、明後日と明々後日は病院の面接だ。準備していたけれどそれどころでは無くなって、何を言おうか考えていたこともすっかり抜けてしまっていた。私は我にかえり、勉強をした。しかし、1時間も経つと集中力が切れて、まだ目を覚まさない父の容体のことが気になってしまう。「くも膜下出血 予後」と検索しては一喜一憂して、それでも奇跡を信じて父のためにも頑張ろうと勉強に戻った。高校教師であった父は昔から「勉強しろ」「勉強第一」と口酸っぱく言っていた。その姿を思い出し、勉強を頑張ることで父の容体も良くなるのではないか、そう信じて続けた。

いよいよ就職試験の当日がやってきた。面接というのは緊張するものなのに、あの時の私は笑顔を作るのに必死で、緊張すらしなかった。1つ目の病院は、オンライン面接だった。カメラに向かって微笑みながら発言しているとき、話したいことはたくさん頭の中にあるのに、上手く話せなくなった。左側だけ何か引っかかる感じで、口がうまく開かない。後に歯医者さんで顎関節症と診断された。急にのしかかったストレスに、体は小さな悲鳴を上げていた。3つ目の病院の就職試験が終わり、ひと段落ついたところで、また再びいつ病院から連絡が来るだろうかと落ち着かない時間が続いた。

父が倒れてから2週間ほどたったある日、主治医から母に電話がかかってきた。内容は、「延命治療を希望するかどうか」だった。DNARという概念について、医学部の授業で習ったことがあったが、まさかこんなにも早く自分の家族で考える日が来るとは思わなかった。DNAR(do not attempt resuscitation)とは、「患者本人または患者の利益に関わる代理者の意思決定を受けて心肺蘇生法をおこなわないこと」である。通常は患者が意思決定をするが、私の父のように意識が戻らない患者では、その決定は家族に委ねられる。「1日時間を設けますので、明日までに決めてください。」主治医にそう言われ、母と3人の姉と共に、それぞれ考えることになった。私たちは父の話していたことを思い出した。母によると、倒れる数カ月前から、父が突然、「俺が死ぬみたいな時になったら、蘇生とかしなくていいから。」と言っていたそうだ。母はそれを聞くたび、「なんで今そんな話するのよ、そんなこと言ってないで2人でいろいろなところに行って、長生きしようよ。」と返していた。父もまさか自分がその数か月後に意識不明になるとは思っていなかっただろう。その話を聞いた私たち家族は、はじめは迷っていたものの、全員一致でDNARを希望した。

卒業試験を月末に控えた私は、一日中勉強しかすることがなかった。朝起きて、勉強して、寝る、そんな日々の唯一の楽しみが、母と姉と過ごすご飯の時間だった。「食べたいものがあればなんでも作るからね」そう言って母は作ったことのない料理をレシピを睨みながら作ってくれたり、ホットプレートを出してパーティーのような準備をしてくれた。「美味しいご飯は世界を救う」、は本当だって。

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本当は毎日1日中病室で父のそばにいて過ごしたい、そう家族みんなが思っていたが、コロナ禍で病室になかなかいくことのできなかったので、どうにか父を励まそうとあることを思いついた。家族みんなでメッセージを録音し、父の枕元で流してもらうというものだった。母、3人の姉、姪っ子、甥っ子、叔父、叔母たちからボイスメッセージを集め、CDを作った。父がずっと可愛がっていた教え子たちにも呼びかけると、20人以上の教え子からメッセージが寄せられた。こんなにも父の回復を願う人たちがいて、父が愛した人たちがいて、父はやはり偉大だと実感した。ラジカセとCDを看護師さんに届け、流してもらうように頼むと、すぐに対応してくれた。1日中、その30分あまりのボイスメッセージを繰り返し流し続けてくれた。あの時の看護師さんの対応には感謝でいっぱいだ。

倒れてから14日目、父は62歳の誕生日を迎えた。この日も面会は許されなかったが、私たちは家族みんなでバースデーメッセージを録音しCDを作成し、父の大好きだった治一郎のバウムクーヘンと共に病院へもっていった。まだ目は覚めないけれど、父は一つ年を重ねた。その事実が私たちを何よりも励ましてくれた。


8月21日、17時ごろ病院の看護師さんから電話があった。「ここ最近血圧が落ち着いていたが、今朝から血圧が下がったままでなかなか戻らない。今夜が山場かもしれないので面会に来てください。」そう聞いて私たちは急いで車を走らせ、病院に向かった。二人ずつ面会をするように伝えられ、母と一緒に病室に行った。久しぶりに見た父は、顔も、手も、足も、ひどい浮腫でいつもとは見た目が変わっていた。この19日間、父が戦い続けた証のようにも見えた。しかし大好きな父の太い眉はそのままだった。病室は私たちからのボイスメッセージが延々と流れ続け、モニターの音が鳴り響いていた。モニターの血圧は再びショック状態で、脈も少なくなっていた。最後の時間で父に伝えたいことを伝えなければ、と私はとにかくたくさんのことを話した。一緒にスキーに行ったこと、小さい頃寝る前に面白い話をしてくれた時間が好きだったこと、勉強をたくさん教えてくれたこと、誰よりも応援してくれた医学部合格を叶えたこと、理想の医師になるために頑張ること、ずっと行きたかったスペインに家族で行ったこと、思い出が溢れて止まらなかった。そして最後に「この世界で一番のお父さんです、大好きです、ありがとう。」と。2人ずつの面会を終え、一旦ホテルに戻った。山場と言われていた1日の夜を乗り越えた。「父はやはり強いね」そういいながらベッドに入った。そして、日付が変わってすぐに、再び病院から電話があった。母と2人の姉と4人で、最後の面会をした。モニターの数字が0になり、また脈が20くらいになり、そんな状況を繰り返して徐々にその回数が増えていった。最後まで戦い続けた父に向かって、私たちは4人で泣きながら叫び続けた。「お父さん、お父さん、大好きだよ、ありがとう。」病棟中に響きわたるほど、声を出していた。そして、父は母と4人の娘に見守られながら、天国へ旅立った。この日は私の人生で一番泣いた日だったと思う。

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亡くなってから数日は、お通夜・お葬式などの準備であっという間に過ぎ去っていった。父の突然の訃報を知らせるたび、「まだまだ若いし、あんなに元気だったのに、どうして。」と知り合いから言われ、私たちは父の病気のことを簡単に話した。母は病気のことなんて考えたくもないし話したくもない、と言っていたので医師の姉と私が説明を担当した。父は健康オタクでいろんなサプリを飲んでいたし、健康に関する本や雑誌もたくさん読んでいた。脳ドックにも数年に1回行っていて、異常はなかった。それでも父は突然くも膜下出血となり、帰らぬ人となった。あんなに気を遣っていたのに、忙しかった仕事を退職してやっといろんなところに行けると喜んで話していたのに、孫がどんどん大きくなって遊ぶのを楽しみにしていたのに・・・。一番父が悔しがっているに違いないから、私たちが泣いてばかりいてはダメだ。そう言い聞かせて、私たちは父を精一杯送り出した。

葬儀を終えると卒業試験3日前という現実を突きつけられた。他の同級生よりも圧倒的に勉強が進んでいない私は焦り、大学のある県に急いで戻った。駅には唯一父のことを話していた親友2人がお菓子を持って迎えに来てくれた。彼女たちの姿を見た瞬間、私の目から涙が止まらなくなった。しかし泣いてる暇はない。そこから3日間、必死に勉強した。友人と朝から夜まで勉強するのは久しぶりで、3年生や4年生の頃を思い出して懐かしくなった。辛い時に一緒に頑張ってくれる誰かがいるのは本当に心強い。私は本当に周りの人に恵まれた。そう実感した瞬間だった。

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残された私たちにできることは何か。それは父の遺志をつぐこと。父の思いをほかの人に伝えること。中でも私にできる一番のこと、それは医師国家試験に合格して医師になり、自分の理想の医師像を追い求め続けることだ。教師だった父は実はずっと医師になりたいと言っていた。一度大学に入ったがあきらめきれず、1年休学して勉強していたほどだ。しかし金銭面で受験勉強をすることは許されず、父は高校教師になった。私がそのことを知ったのはちょうど高校3年生の受験生の頃だったと思う。物心ついた時から白衣姿で聴診器を持ち、何人もの患者の命を救う姿に憧れ、将来の夢はお医者さんだった。中高一貫の女子校に入学し、成績は全然良くなかったが医学部合格を目標としていた。定期テストのたびに赤点に近い点数を取ることもあり、父から心配された。テスト当日には父から「今日も頑張れよ。しっかりな。」といったメールがあり、終わると「テストの出来はどうだった」とすぐに聞かれた。勉強が出来なかった私の答えはいつも、「まあまあかなあ。」だった。父からの応援メールは中高6年間ほぼ毎回のテストのたびに送られた。そんな父の応援もあり、私は無事に医学部に合格した。そして平和に時は流れ、6年生の夏を迎えた。せっかく最速で医者になれるはずだったのに。人生はいつ何が起こるか分からない。あと半年で国家試験という時に、大好きな父が突然この世からいなくなってしまった。医師になれたら誰よりも喜んでくれたはずなのに、父はもういない。

国家試験の勉強で挫折しそうになるたび、私は父からの言葉を思い出していた。

Do your best for your wonderful future.”(素晴らしい未来のために、最善を尽くせ。)数学教師で英語が苦手だった父が、筆記体で書いてくれたメッセージ。とても印象に残っている。


最後の最後まであきらめず、しぶとく粘った人に幸いが来る。あきらめそうになったときには、もう一度だけやり直してみようという気持ちで頑張ってほしい。そんな気持ちだけで、ろくな能力もなく人並みに生き、ここまでやってこられた自分を振り返るとき、能力と若さ・可能性にあふれる君たちをうらやましく思うとともに、その可能性の芽を君たち自ら摘んではいけないよ、頑張れよ!と願ってやまない。”当時担任をしてた高校三年生の生徒に向けて送ったメッセージ。しんどい時に踏ん張る力になった。


大好きな父とのお別れは突然だったが、亡くなったあと、父が何度か夢に出てきてくれた。亡くなって2ヶ月くらい経ったころ、初めて夢に出てきた父は、いつもと同じように元気だった。私たちと楽しく会話し、孫と遊び、美味しいものを食べていた。しかしとある瞬間に「自分が突然倒れ、意識が戻らないまま亡くなる」という事実を知らされる。父は夢の中で見たこと無いくらい絶望し、悔しがり、怒り、叫び、泣いていた。私はその場面で目を覚ました。夢に出てきた父が鮮明すぎて、生き返ったのではないかと錯覚するくらいだった。そしてあの悔しがっている姿が忘れられず、久しぶりに号泣した。


あるときは父と一緒に海のきれいな島に行った。実は、父は亡くなった1か月後に沖縄の離島への旅行を1人で申し込んでいた。この事実は家族誰も知らなかった。亡くなってから1週間くらい経ったとき、突然旅行会社から連絡があり、「申し込んでいたツアーが催行されないことになった」と連絡があったのだ。父はコロナ禍になってからたびたび、「北海道か沖縄に行きたい」と言っていたが、私たち家族は反対しており、実現していなかった。家族に言わずに予約するほど行きたかったなんて・・・。切ない気持ちでいっぱいになった。そんな沖縄の離島のようなところに、父と飛行機に乗っていった夢だった。滞在先のホテルで「明日はビーチのあたりをサイクリングしよう」そう父に言われてワクワクしながらベッドに入ろうとしたところで、目が覚めた。思えば父と旅行をするといつも、ホテル周辺で朝の散歩をするのが日課だった。私は朝が本当に苦手で、早起きできずに父を怒らせていたっけ・・・。国家試験の勉強も夜型中心で早起きが全然できていなかった。あの時父は私に「早起きして頑張れよ」と伝えに来てくれたのかもしれない。

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12月に入っていよいよ寒くなり国家試験が目前になったころ、私の勉強はスランプに陥っていた。みんなと同じくらいの演習量をこなしているはずなのに、模試などで結果が出ない。あと2ヶ月弱、このまま間に合うのだろうか、国家試験に落ちてしまうのではないか、そう焦っていた時に、父がまた夢に出てきた。国家試験前日、いつものリビングで父と勉強している夢だった。リビングは、中学受験の頃から私たちの定番の勉強場所だった。父が仕事をしていたり、母や祖母が家事をしているなかで良く勉強していた。そんな懐かしい光景が鮮明と蘇って、いままで頑張ってきたのはすべて医者になるという夢を叶えるためだ、と思いだした。その夢から覚めた時から、私は受かる受からないを気にするのではなく、今日できる一番のことをしよう、と思うようになった。あの時父が出てきたのは初心を思い出して頑張れ、というメッセージだったと思う。

夢に父が出てくるたび、「父はこの世からいなくなってしまったけれど、どこかで私たちのことを必ず見てくれている」と思うようになった。父との思い出を振り返りながら、父が与えてくれた考え方や言葉を思い出し、励まされて前に進む。父は私の心の中でずっと一緒に生き続け、いつものあの穏やかな笑顔で応援してくれている。残された私たちは日々を精一杯楽しもう。愛する家族や友人を大切にしよう。大切な人に伝えたいメッセージや感謝の言葉は、すぐに伝えよう。これらのことを心に留めて、父と共に生きていこうと思う。


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