三鷹の陸橋 第十二回
―びっくりするようなことを、教えて頂きましたわ。
―玉川上水の水嵩が増したら、水音を聴きにまたお邪魔するつもりです。
ところで、「津軽」の結びの一文を覚えていますか?
一瞬かんがえてその人は答えた。
―あ、「では、失敬。」でしたかしら。
―そうです、そうです。正解。命あらばまた他日。では、失敬。
哲彦は名のらず、その人の名前も訊ねなかった。交わした会話の濃密さからみれば不自然なくらいあっけない別れ方だった。
「命あらばまた他日」。手を握るでもなく、ラインを交換するでもなく、左手の指先を2、3度ひらひらさせると飄客のような足取りで、彼はペデストリアンデッキの影の下に歩み去った。
「りくばし」は記憶の中の姿よりは立派な造作だった。哲彦は初めて南側からこの橋に昇った。橋の階段は北に二つ、南に二つあるから一度往復すれば4つすべてを踏破できる。「橋づくし」である。
階段の表面は小さな玉砂利を混ぜたコンクリでできている。この素材はもう滅多に見られない。
かつて東京の道路の道端には至る所に防火用の水槽が据えつけてあった。その手触りがこの橋の踏み板と同じだった。水槽には金魚だのホテイアオイだのが暮らしていた。
竣工時の構造材は古レールだが、補強工事を重ねてきた痕跡は素人目にも明らかである。
素材が違う。工法が違う。施工の目的が違う。
継ぎはぎだらけである。
更新修繕の先に延命が見通せないのであれば、取り壊しは止むを得まい。
哲彦はかつて訪ねたハノイのロンビエン橋を思いだした。
仏領インドシナ時代に「横たわるエッフェル塔」と麗姿を謳われた、川幅1700メートルの紅河に架かる大橋である。
三鷹の陸橋と比べては申し訳ないほどの格の違いではあるが、ベトナム戦争のおり「北爆」により繰り返し破壊され、その都度修繕と復旧を重ねてきた。
継ぎはぎだらけ、錆だらけなのは「りくばし」と同じである。
バイクや自転車がひっきりなしに走り、時折国際列車も通過するが、歩行者用の手すりには途切れているところすらあった。リアルな「戦争遺産」だが観光客はほぼいない。うっかり足を踏み外せば十数メートル下の河面に逆落としである。
三鷹の全長90メートルの跨線橋にその憂いはない。橋の真ん中あたりに立ち、哲彦はぐるりを見渡した。
留置線に休む電車も彼の知る形から最新のものへと、もう二代も代替わりしている。
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