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三鷹の陸橋 第八回

太宰が山崎富栄を伴って入水したという斜面は、水の流れが雑木の枝葉に遮られていて見ることができない。
ガイドは哲彦に声をかけるでもなく、ゆっくり次の路地へと赴き、目で追う彼はそれに従った。
彼女は寂びた古い家の塀の前に立ち、かつて太宰宅に植えられていて今はここに移植されたという百日紅の幹を撫ではじめた。
―何色の花をつけるのです。濃いピンクの暑苦しい奴なら、あれは僕は御免だな。
誰も哲彦の趣味なぞ尋ねてはいない。
初めて敬語を捨てて、彼はノンシャランとした口調で話しかけた。
―白いのもありますわ。
―薄紅のもね。それでこの樹の花の色は何色?
―ごめんなさい勉強不足なもので。まだ存じ上げません。
―夏に咲く花だけれど。あ、ではこの仕事に就かれたのはごく最近なんですね。
―来年には、何色の花が咲くのか確かめておきますわ。
―それならば、私にも次の夏の楽しみができたことになります。
再会を望んでいるようにも、そうではないようにも取れる物言いを、哲彦はした。
―薄紅の百日紅は可憐ですわね。
―以前、その花が散歩道に散り敷かれていて、気疎い風にほろりほろりと転がっていくのに、出合わせました。
老母の杖替わりの散歩の途中でした。
小走りでそのいくたりかを摘まんで、母の家の紫檀の机に置いて帰ったことがあるのです。
―翌週また訪ねてみたら、金平糖のような小さな花はひと回り小さくなったようではありましたが、それでもまだ色もかたちもそのままに残っていました。母は、なんだか可愛くなってしまって。それにお前が置いていったものだから、片づけかねていたんだよ、と言いました。
―お母様はきっとあなたのことをずっと、可愛い可愛いと思って育てて来られたのでしょう。
―止してください。いい年をした親父にそんなこと薄気味悪い。
―花の薄紅に話を戻すならば、りんごの花にも白と紅が混ざったのがあります。
―ご出身は青森ですの?
―いいえ。しかし最近縁ができたので、「津軽愛」に染まりかけて、心の白地に紅が混じり始めたのを感じることがあります。
百日紅の幹をガイドが撫ではじめてから随分経った。
すべすべした肌で、撫でれば指先が気持ちいい。
細い、節の目立たぬ人差し指と中指で、大事そうにも大儀そうにも見える様子で撫で続けるのをやめない。
行人の幾たりかが、哲彦たちの親密そうな気配にちらと好奇の目を向けて通り過ぎた。

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