三鷹の陸橋 第十三回
いま眼下の引き込み線に憇う電車の、「形式名」を彼は知らない。
幼稚園児にだって、答えられる子はあるだろう。
哲彦が知っているのは、73系、101系、70系、115系、165系、181系、301系、営団5000系など、とうに引退してしまった電車ばかりだ。
汽車ポッポが好きだなどと、鉄道模型が趣味だなどと、口先では言うものの、その実質が痛ましいほどに瘦せ衰えていることを、そうと知りながら、もう20年以上も彼は認めずにきている。
―ねえ、パパの遊びは何なの?鉄道模型だって言ってるけれど、走らせもしないし、作ってもいないじゃないか。
子供が幼かった日に、哲彦に突き付けた問いが、今も彼の胸に刺さっている。
哲彦の遊びとは、何だったのだろう。
車庫に休む、とある車両の屋根上に、思いがけない発見があった。レモン色のテニスボールがひとつ、パンタグラフの近くに、ぽんッと乗っかっていたのである。
大正時代の京都、丸善の店頭であれば、積み上げた画集の頂上に、「カーンと冴え」かえる、一顆の檸檬を夢想する若者もいたであろう。
令和の三鷹で、いったい、どうやってボールは、電車の屋根に納まることができたのか。
屋根上にはさまざまな機器類や、電気配管が巡らされているから、また電車が走り出しても、よほど激しい突き上げでもない限り、ボールはちょっとやそっとのことでは転げ落ちまい。
風来坊のボールは無賃乗車をきめこんで、車庫に帰る都度、また幾たびか陸橋の下をくぐるのかも知れない。
―今日も、富士山が見えたら良いのだけれど。
ガイドの声が、耳朶によみがえる。
端正な言葉遣い、声の張り、麗しい抑揚。
それらを、ずいぶん昔のことのように、彼は思いだした。
あいにく富士の姿は、霞んでいて見えない。
昼下がりの、薄曇りの空には、刷毛で刷いたような雲が流れているばかりだった。
三鷹の電車庫は、昭和20年2月に空襲で焼かれた。
太宰が三鷹の小さな家で「津軽」を書きあげた七か月後である。
敗戦後、昭和23年2月に撮影された太宰の写真の背景には、車庫に荒れはてた省線電車の姿が写っている。
陸橋が、爆弾の直撃を受けなかった、とは考えにくい。
この貧弱な橋ひとつを壊せば、直下の線路は損傷し、中央線は三鷹駅以西で運行できなくなる。
山梨方面から首都への糧道は断たれ、反対に疎開もできなくなる。
入庫中の電車は稼働できなくなり、三鷹の西側は南北に分断される。
爆撃のコストパフォーマンスは、決して小さくはない。
そうだ。
だとすればこの橋もまた、ロンビエン橋同様、きっと破壊されたのに違いない。
そうして、その後、急場しのぎの復旧工事が施されたのに違いない。
その痕跡は、度重なる更新工事の末に、今や確かめることができないかも知れないけれど、陸橋には、きっと渡れない時期があったのではないか。
しまった。
今の今まで、陸橋を空襲に結び付けて思い描くことを、哲彦は忘れていた。
三鷹の空襲について、ガイドに質問しそびれた迂闊さを、彼は悔やんだ。
哲彦は幼いころ、父親から幾度か、学徒動員で三鷹の中島飛行機の工場に通った話を聞いた。
零戦のエンジンの組み立てに、駆り出されたのだという。
機体を設計した堀越二郎技師への敬慕を、父親は熱を込めて語った。
子供だった哲彦は、そういう父が好きだった。
父の少年時代を、誇らしく思った。
男の子には、誰しも、父親を踏み越えようと、憎み、闘い、葛藤する時期がある。
あってしかるべきだろう。
そこを乗り越えたあとになお、哲彦が父の少年時代を誇らしく思う気持ちには、変わりがなかった。
サイパン島が「陥落」すると、米軍は、珠洲や輪島など能登半島先端部を除き、本州の大半を空襲の射程圏に収めた。
昭和19年11月に始まった、B29による東京空襲の最初の標的が、まさにほかならぬこの中島飛行機武蔵製作所だった。
東京の命運は、もう、敵国の思うまま、なすがままになった。