#158_贈与と親子関係を分析する
今読んでいるのは「世界は贈与でできている」(近内悠太・2020)
資本主義の「すきま」を埋める倫理学
ここで興味深い、贈与と交換の法則、呪い、そして相手との関係性について、自分の人間関係をもとに分析してみたい。
筆者は
「わたしたちは、他者から贈与されることでしか、本当に大切なものを手にすることはできない」(p.22)と述べる。
他者からのプレゼントがその価値以上の力を発揮するのは、自分に対する相手からの思いが、プレゼントを通して透けて見えるときだ。
その相手が好きであればあるほど、思いを感じるプレゼントは「お値段以上」となる。
バレンタイン商戦やクリスマスイベント(最近ではこどもの日やひな祭り、七夕も参戦している模様)は、そんな人の心理を巧みに購買意欲に結びつける戦法だ。
筆者の親子関係の見立ても非常に興味深い。
親子には「無償の愛」はない、と言い切っているのだ。
人間は、生まれながらにして未熟な存在だ。
他の動物とは異なり、一人では決して生き抜くことができない状態で生まれてくる。
必然的に、親は子の世話をする。
そこに「贈与」の余地はない、ように見える。
しかし、親が子だった頃に遡ると、その親もまた「贈与」を与えられた存在である、と筆者は綴る。
年老いた両親が孫を切望するのは、親が「自分の贈与は正しかったのだろうか」(子どもは真っ当に育ったのか、誰かに愛される存在となったのか)を確かめる術の一つだというのだ。
わたしは晩婚である。
30半ばまで結婚には縁がなく、するかどうかもわからない人生を送ってきた。
「孫が見たい」と何度となく言われてきた。
そのたびに、なぜか罪悪感と、自分の人生を肯定しきれない背徳感に押しつぶされそうになってきた覚えがある。
結婚後は少しほっとした。嬉しさよりも安堵が大きかったように思う。
大きめの子宮筋腫があったこともあり、子どもはできるかわからなかったが、不妊治療の結果、2人の子宝に恵まれた。
ここで初めて「わたしは親孝行ができた」と思えた。
その謎も、この贈与サイクルに当てはめると納得できる。
このような感覚は、わたしたちが社会的な存在だからに他ならない。
では、仕事における人間関係ではどうだろうか。
明日に続く。
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