#55_学びの二日間(その1)

鈴木惠子先生の授業動画を拝見してから、その子どもたちの姿に憧れて、追い続けている。
今回は3回目のセミナーだった。

宇野弘恵先生という、北海道の素晴らしい先生とのコラボレーション。
宇野先生も、10年以上前から鈴木惠子先生を追い続けている先生のお一人であるという。
わたしにとっては宇野先生は雲の上の方。
そんな実践者が憧れ続ける鈴木先生は、文字通り化け物のような人だと思った。

宇野先生が4月から大切にしていらっしゃる、「自他尊敬」「自他尊重」「自己表現」「他者受容」
これは鈴木惠子先生ご自身も学級づくりで大切にしていらっしゃる、人を育てる極意そのものだ。

くじらぐもの授業実践。
子どもたちの動画での姿から、宇野先生が子どもの思いを最大限尊重しようという思いで接していることと同時に、子どもたちの言葉の力を最大限伸ばそうとする姿が読み取れた。

子どもたちの自主性を育むためには、子どもたちのそのままの姿を受容した先に、それぞれの子どもを鍛え励まし伸ばそうとする信念と関わり、技術が必要だ。
「くじらぐもは号令に合わせて1、2、3、4と動けていたよね。」
「どうして初対面のくじらぐもの上にみんなは乗ろうとしたんだろう。」
「白いくじらぐもと黒いくじらぐも、みんなならどちらに乗りたい?」
「ジャングルジムの上におろしたって書いてあるけど、くじらぐもはどこまで下がっておろしたのかな。」
「ってことは、最初からジャンプさせずにくじらぐもがおりてきたら、みんな楽に乗れたのにね。どうして最初はおりてこなかったんだろうね。」
こんな問いがどんどん出てくる。
宇野先生の物語文の読みの深さはもちろん素晴らしいけれど、さらにすばらしいのは、その読みに子どもたちを追いつかせるのではないということ。
子どもたちの読みをもとに、問いながら子どもたち自身が読みを深められる手立てを講じていることだ。

授業のねらいはもちろん大事。
子どもたちをねらいに向かわせる手立てももちろん大事。
でも、それ以上に大切なのは
「この子どもたちをどのような子どもに育てたいか」
「そのために、この物語を通してどのような力を身につけられるようにしたいか」
これに尽きる。

鈴木先生の授業DVD。
今回は「川とノリオ」だった。
教科書の情景に自分の体験を重ねて語り始める子どもたち。
「わかってもらいたい!」という思いが、言葉の端々から溢れる。
感極まって泣き始める子どもも。
すさまじい授業だと思ったが、鈴木先生は「国語の授業なのに、子どもたちは自分の体験を語りすぎていて物語の世界からは離れている」「ノリオの、言葉にできない悲しみの末に乗り越えた一縷の希望の光まで見えるように、”ノリオの人生は絶望的なの?”と問い返せばよかった。」と評していた。

自分を通して物語に出会うからこそ、生きた話になる。
30人いたら30通りの読みになる。その読みの違いを見えるようにすることで、言葉に命が吹き込まれていく。

鈴木先生の国語教育観、おおもとの教育観が言葉の端々に滲み出ていた。

物腰柔らかにみえる鈴木先生だったが、もともとはご自分にも厳しく、子どもたちにも優しさを底に敷いた厳しさがあると感じている。
特に「聴く」姿勢に対する徹底ぶりは凄まじい。
惠子先生は常に、話し手ではなく聞き手を見ている。
聞き手が育てば、話し手も育つという考え方だろう。
それは、悲しい思いをする子が一人もいないように。
話を聴いてくれないと絶望する子が一人も出ないように。
全ての子どもを尊重する覚悟と気概があるからこその厳しさ。
胸にしかと留めた。

自分の授業や学級づくりと比較してみる。
比較するのもおこがましいようであるが、中学校と小学校の違いも大きいと感じざるを得ない。
中学校は、学年の先生方の教育観を少なくとも共有する必要がある。
それぞれのビジョンを共有しなければ、その先にある関わり方や技術の意味が理解できず、わかり合えないという溝を深めるだけだ。

わたしに圧倒的に足りなかったのは、学年全員で子どもたちを育てようという覚悟。
そして、もしかしたら無意識に「絶対最高のクラスをつくってやる」という傲慢さがあったのかもしれない。(自覚はないけれど)
周りの先生方の反感を買ったのかもしれない。

自分だけでどうにかできる問題ではない。
子どもたちの未来がかかっている。
でも、妥協はしたくない。
あと1ヶ月、できることをやっていき、限りある時間の中で思いを伝えて形にしていこうと思う。
本当に、あと1ヶ月。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?