#205_未来を創る仕事

埼玉のフィールドワークにお邪魔しました。

最初に連れて行ってもらったのは川越の河川敷。
陶器の破片がごろごろ。
何だかわかりますか?これ。

四式陶器手榴弾。
陶器でできた手榴弾の残骸(外側の部分)だそうです。

なぜ陶器なのか?
なぜ川越の河川敷に?
これだけで「?」がたくさん出てきますよね。

終戦前まで、ここには浅野カーリットという工場がありました。
カーリットは爆薬のこと。
さらに隣のふじみ野市には陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)、つまり陸軍の兵器製造施設があったそうです。

そう、ここでは武器となる手榴弾が製造されていたのです。
でも普通、兵器は薬品にも衝撃にも強い金属製。
なぜ陶器なのか?
・・・
・・・
・・・

時は戦時中。
民間人からも金物は回収されるほど金属は不足していました。
そこで注目されたのが陶器。
昭和19年夏頃から、全国各地の名産陶器、瀬戸物が集められたそうです。
日本六古窯。越前、信楽、瀬戸、常滑、備前、丹波。(←調べた笑)
川越には主に、信楽焼と有田焼(六古窯には入ってないが)が使われていたようです。

例えば信楽焼の手榴弾には「信」の字が刻まれていたとか。
瀬戸焼の陶製手榴弾は、白と黒。
落ちていたのは欠片ばかりでしたが、美しさを感じました。

川越の交通の便の良さもきっと、一役買ってたのでしょう。
中山道も通っているんですね。

この陶製手榴弾は四式と呼ばれていたそうですが、効果は鉄製には遠く及ばなかったらしく、直接ぶつかっても火傷を負わせる程度だったとか。
(鉄製の場合は殺傷力が高く、誤爆で3~4人亡くなったという記録があるようです。)
実戦では、沖縄と硫黄島などで使われていたようですが・・・。

※ 上福岡歴史民俗資料館に陶製手榴弾が展示されていたようですが、企画展かな?

何のためにつくったのだろう。
もし威嚇のためにつくったのだとしたら、悲しすぎる。
ただでさえ、物資もなく食料もない、厳しい時代だったのに。

実際に陶製手榴弾を作った方のインタビュー記事を読みました。
作る側も作らせる側も、威力がないことを知っていて作っていたという証言があります。

高い芸術的価値と生活に根付く確かな実用性とを兼ね備えた焼き物が、人を傷つける兵器として使われていた事実。

そこで働いていただろう人々、学生さんたちの悲痛な思い。

生きたくても生きられなかった人々。

一つ一つの事実を知れば知るほど、戦争の悲しさが伝わってくる。
今の平和な世界は間違いなく、このとき身を千切るような思いで生き抜いてきた方々が創ってくれたものです。

なぜ、人はここまでして人と争うのだろう。
その理由が、苫野一徳先生の仰る「自由への渇望」だとしたら、社会のシステム自体への疑問を感じずにはいられません。

と同時に、やはり未来を創る教育観の転換だろうと。

現代社会が対峙する問題は、人同士の争いだけではなく自然の異変もあります。
今日の暑さも尋常じゃありませんでした。

自分の仕事は未来を創る仕事だと、身を引き締めて日々の活動に勤しみます。

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