#66_語りかけと問いかけの技術ー加藤末吉の授業論ー
とある理由があって、発問についての研究に関する書籍を探っている。
本日の書籍は「明治期発問論の研究 ー豊田久亀 著ー」
その中に書かれていた、加藤末吉の授業論に深く感銘を受けた。
加藤は東京高師附属小学校で教鞭を執っていた。
加藤は教授の目的を
「児童をして、自ら立ち、自ら鍛ひ自ら練ること」としていたそうだ。
「児童が自動の領域を侵して、彼等の手を取り、体を支へて、その発達を妨ぐるが如きを以て、吾等の職能とは思はない。吾等の親切と、愛とは、彼等を動かしむる中に、深く籠もって居る。」
今の教育にも十分通じるこの言葉。
子どもの自動を重んじ、子どもを中心にすえる教授法。
これは教授機能の軽減や後退ではなく、強化を意味しているということだから驚きだ。
加藤は、3つの点を強調している。(p.218)
① 教師の教えたいものを彼らの学びたいものに変え、教師と共同活動することによって自分たちの学びたいものを自分たちで学び獲ったという学習体験を仕組んでいくこと。
② 子どもを管理する世界を排除し、純粋に教授のみによって授業を成立できるような教授技術を求めること。
③ 単なる知識や技能の伝達だけではなく、その伝達が自己学習能力、自己発問能力の形成のための体系的な始動になるべきであること。
加藤にとっての教材研究は、どうしても教えたいものを児童が学びたいものに変えるための手立ての1つである。
そのための指導技術と教材解釈の必要性を説いている。
加藤はさらに、教授技術の未熟さを、管理で補っていると説いている。②の管理に依存しない教授法とはまさにこのことで、学びたくない子どもたちに強制力を以て学ばせようとする教育からの脱却を強調している。
③についても興味深い。加藤は、教師が教材を解釈していくその手順まで子どもたちに教えていき、やがて彼らが自力で教材を分析し、解釈していくことができるようにすることの重要性を示唆している。
発問は彼らの思考を促すだけではなく、彼等に問い方を教えるものでなければならない。
教師が発問する際に、子どもに問い方を教えていくにはどうすればよいか、ということも考慮する必要があることを強調している。
道徳科における問い方の指導はまだまだ道半ばであるが、この1年の実践はかなり大きな礎となった。
自分の授業のなかで、子どもたちの思考が活性化した瞬間、子どもたちが考えたくなる瞬間が確かにあった。
どのような思考の流れのなかでの問いかけか、再度動画を見なおして分析していきたい。
実践と理論の往還。
本当に面白い。
こんなに面白いことはない。