#78_個別学習と「見る力」

個性化の時代だと言われるようになって久しい。
巷では、自ら学ぶ力を育てる子どもを育てるためのハウツー本が続々と出ている。
特に子どもたちの意欲を喚起できるような仕掛けづくりがもてはやされているように感じている。

少し気になるのが
「子どもたちはそのままでも十分」
「一人一人の個性を発揮できるように場をつくる」
類いのお話。

横糸を張る「認め合い」についての話題が多く、縦糸を張る「磨き合い」の観点が薄いように感じるのだ。

確かに、今のご時世、子どもたちを「鍛えにくい」環境が揃っている。
何かあるとすぐに親からのクレームが入る。
言葉一つひとつの使い方にも気を遣う。
一つの言葉やニュアンスに対する受け手の捉え方が今まで以上に多様で、かけた言葉がある子にとっては甘く、ある子にとっては厳しすぎるように感じられることもよくある。
平等に接することに対して、子どもも親も過敏だ。
敬称やジェンダーに関する注意喚起に溢れている。
子どもたち自身が怒られ慣れていない。注意した言葉も攻撃されたと勘違いされることがある。

こんな世の中だからこそ、「鍛える」ことの重要性を声高に叫びたい。

「集団思考の授業づくりと発問力」で、豊田ひさきはこのように述べている。

授業では、互いの違いをそのままにしておくわけにはいかない。それではもったいないではないか。学級で授業をしている意味がないではないか。互いの違いを突き合せて、違いが生じてくるわけまでもみんなで共有し合うことが大事である。違いが生じてくるわけまで分かり合ってはじめて、「違いを共有する」ということも言えるのである。だとすれば、教師は違うもの同士を同じ土俵に乗せ、互いに突き合せるという作業をまず行わなければならない。

pp16-17

非常に興味深い。
集団で学ぶ意義は、違いを認め理解することである。独りよがりの学びではなく、異なる意見に出会うことによって、より広い視野を獲得し、自らの生き方に加えることに、学校で学ぶ意義があると考える。

こうも書かれている。

自分が出した意見や疑問、あるいは「分からない」までもがきっかけになって、眼の前で、授業前には予想もしなかったドラマが展開している、という場面が体験でき、共有できたならば、子どもたちにとってこれほど楽しくて印象に残ることはないだろう。
 子どもたちは、この先どうなるかとハラハラ・ドキドキしながら、自分も全身全霊を投じて授業に参加しようとしてくる。ふと隣を見ると、昨日まで、授業中あまり元気がなかったあの子まで、今、眼を輝かせて自分の疑問や意見を述べている。この時、「わからない」と言った自分も、紛れもなくこのような状況を創り出したその当事者の一人なのだ、ということをその子が感得したならば、これほど感動的なことはなかろう。

pp22-23

この状況をつくりだす手段として、発問がある。発問づくりとは、これを目指した教師の重要な仕事である、と豊田は続けている。

発問をつくるためには、子どもたちがどこでつまずくのか、理解が滞るのかをあらかじめ教師が予想する必要がある。
子どものつまずきは教師のつまずきである、という言葉もある。
一通りの理解しかイメージできない教師は、子どものつまずきに寄り添うことは難しい。
子どものつまずきを予想すること。これは教科教育に限らず生徒指導でもどのような場面でも必要な教師の見取る力の一つである。

道徳科における、子どもの思考過程でのつまずきは何か。
新たな問いが出たところで、今日は終わりにしよう。

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