【小説】全身を濃紺に染める夜(微ホラー)
①『月が空高くに落ちている』
「彼と別れてください」
DMにはそう書かれていた。相手は既にアカウントを削除している。
それは仕事を終えて私服に着替えたあとにSNSをチェックした時で、彼女は全くの無防備状態だった。仕事の疲れも今夜の予定も何もかもを吹き飛ばされ、一瞬にして全身を強ばらせる。
(落ち着いて。大丈夫)
夫に事の次第をしたためたメッセージを送信し、冷たくなった指先でスマホを閉じる。急いでカバンにしまって更衣室を出る。
夫からの返信はすぐに来た。
ーー身に覚えなし!
ーー誰のいたずら?
ーー許せん
ーー犯人炙り出す!
文面に少しだけホッとして、スマホを再びカバンへと戻す。
「お疲れ様です」
事務所に挨拶をして、会社をあとにする。
外はすっかり夜。切るように冷たい風が吹いていて、濃紺の空には月が浮かんでいた。
(明るい、人気のある道を選んで)
駅までの道は大通り沿いで、夜遅い割に賑わっているから安心だ。
それでも背後に気配を感じたのか、ちらり振り返る。
後ろには60代くらいの女が猫背気味に歩いているだけだった。足音も立てずに。
女の姿を確認した彼女は慌てて歩き出す。その様子はどう見てもおかしかった。顔は強張り、青ざめている。
仕方のないことだ。60代くらいの女には足がなかった。足どころか腰から下がない。
振り返る事も出来ず、彼女はただ駅に向かって一心に歩き続けた。
(何なの?)
彼女は何も悪いことをしていていない。
思い当たるのは些細なことだ。
ちょっと後輩や上司の悪口をいうことはある。
高校の時、同級生の髪型を陰で笑ったことはある。
それでも。だからといって、ご婦人の幽霊に取り憑かれるようなことはしていない。していないはずだ。
そして、次第に速度が遅くなる。もしかしたら気のせいかもしれない。あんなDMを見てしまったから。気が動転しておかしなものを見たのかもしれない。
だいたい、こんな人通りのある道に堂々と幽霊がでるなんて。ありえない。
そう思ったのか、彼女はゆっくりと振り返った。
誰もいない。
残っているのは気配だけ。
彼女はスマホを取り出し、夫に電話をする。
「もしもし、どうしたの?」
DMのこともあってか夫はすぐに電話に出た。
「追いかけられるかもしれない」
「えっ!」
「もうすぐ駅だから大丈夫とは思うけど」
「誰に? 警察に行ける?」
彼女はもう一度振り返る。
「ーーいない。うん、いなくなった」
「迎えに行く」
「ううん、もう駅だから諦めたんだと思う」
幽霊に追いかけられた、なんて言えない。
「人のいるところを歩くようにする」
そう言って電話を切った。
(あなたは悪くない。何も悪くない)
何も知らずに駅へ吸い込まれていく彼女の後を、猫背のご婦人が音もなくついて行く。
ホームには次の電車を待つ人が既に列をなしていた。帰宅ラッシュのホームは人でごった返している。だいたいの人がそれぞれのスマホを夢中に見ていた。彼女もいつもの場所に並んだ。
しかし、スマホは見ない。立ち尽くして前に立つサラリーマンらしき男のリュックを見つめている。
彼女は左の手首を掴まれていた。誰かの冷たい手が痛いほどの力を込めて彼女の左手首を握りしめている。
左隣の男は右手でスマホを見ている。右隣は左肩にカバンをかけて、左手でその取っ手をしっかり持っている。彼女の左手首を掴めない。
後ろにはお洒落をした中年の女性が3人横並びでおしゃべりをしている。イヤリングを揺らしながら、子どもがどうだの、旦那がどうだの話している。
そんな人たちが知らない女の手首をつかむとは思えない。
では、この左の手首を掴んでいるのは誰か。彼女はきっと勘づいていた。
(行ってはいけない)
答え合わせのように、ご婦人の声が耳元で囁いた。
(どうか行かないで)
しかし、彼女には届かない。骨ばって皮膚には皺のあるその手を振り払い、電車に乗ってしまった。
そして、彼女は他の乗客と共に押し込められていく。いつも通りの光景なのに、彼女の顔が瞬時に青ざめた。
前後左右に動きが取れない中、また手首を掴まれたのだ。きっと、その生ぬるい感触に嫌悪を覚えたのだろう。
やがて電車は次の駅にたどり着く。
扉が開いて、幾人かが降り、車内にスペースが生まれたとその時。
彼女はその場に倒れ込んだ。右腕からは赤い血液がダラダラと流れ落ち、誰かの悲鳴で彼女はうっすら目を開ける。
さっきまで密集していた乗客が彼女から離れる。離れながらもスマホで撮影する人の群れ。
思わず目を逸らした視線の先、開いた扉とホームの屋根の向こうに銀色の月が見えた。
「救急車!」
「駅員さん呼んで!」
誰かがやってきて、彼女の腕に手早く応急処置を始める。
「写すな!」
女性の叫び声を聞きながらも、彼女の薄れた視野には月と、きっとあのご婦人が映っているのだろう。電車の外に群がる野次馬の頭上に浮かび上がり、下半身のない姿をさらしている。
「ごめんね」
ご婦人はそう言って、涙を流していた。
彼女が意識を失っても、何度も何度も「ごめんね」をくり返す。
ーー彼女の腕を切りつけたのは、お前だ
おばあさんの低い声が耳元に響いて、わたしは目を覚ました。
目覚めても恐怖は生々しく胸に残っている。
これがわたしが最初に見えた夢。
続く
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?