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【小説】全身を濃紺に染める夜(微ホラー)④

④『濃紺に染められる』

 夢の中で、キッチンに立つ女を見ていた。
 見知らぬリビングには布団が敷かれている。大人用と、小さい赤ちゃん用が並んでいる。
 わたしはそのそばに置かれた椅子に座り、見知らぬキッチンで冷蔵庫を物色する、見知らぬ女を見ていた。

「えー、どうしよう」

 そう言うと、次に冷凍庫の引き出しを開ける。ガサガサと弄り、作り置きをしてあった春巻きを取り出した。

「いいのがあるじゃない」

と、声を上げる。

「あ、それは……」

 小声でわたしはつぶやいた。しかし、このわたしはわたしではない。わたしではない誰かの視点で、わたしはキッチンの女を恨めしげに見つめている。

 わたしは産まれたばかりの赤ちゃんを抱っこして椅子に座っていた。産後間もないのか部屋には新生児用のオムツの袋がいくつか積まれている。

 キッチンの女はどうやら母親らしい。産院を退院してきた娘を手伝いに来たらしい。

「夕飯はこれにするね」

 母親が取り出したその作り置きは産前のわたしが作ったものだった。幼稚園に行った上の子どもたちが帰ってきたら時間の余裕がなくなる。赤ちゃんが都合よく寝てくれるとも限らない。
 上の子にも赤ちゃんにも手がかかってどうしようもない。夫は遅くにしか帰ってこない。
 そんな時のために取っておいた作り置き。
 それを、助っ人に来たはずの母親が使ってしまうのが嫌だった。
 でも、文句は言えない。手伝いに来てくれただけいいじゃないか。

「見ててあげるから、昼ご飯食べたら? まだなんでしょ? 早く食べなさいよ」

 夕飯のおかずが決まり、ようやく安堵したのだろう。母親は自分が冷蔵庫を漁っていたことも忘れて冷蔵庫を指さした。

「ありがとう」

 わたしは抱っこしていた赤ちゃんを母親に預ける。それから、冷蔵庫から夫が作っておいてくれたおにぎりを取り出す。

「おにぎりを作ってくれるなんて、素敵なパパだねぇ。あんたのママは楽できていいねぇ」

 母親は赤ちゃんに向かってしゃべりかけた。すると、赤ちゃんはふぎゃふぎゃと泣き出した。

「やだ」

 それは、わたしがおにぎりの皿を手に持って、冷蔵庫の扉を閉めた時だった。

「泣き出しちゃった。はい」

 そう言って、赤ちゃんを投げ出す。わたしは慌てておにぎりをしまい、赤ちゃんを受け取った。

「よく泣く子ねぇ」

 母親はそういうと、リビングのテレビをつけた。

「CMみると泣き止むんじゃない?」

 ドラマの再放送の画面を観つつ、母親は言った。
 わたしの胸に沸々と怒りがこみ上げた。

(怒りが、沸々とーー)

 わたしではないわたしの感情を夢の外でなぞっていく。
 きっと、作り置きの春巻きを使われたことは大したことではない。それ自体が根本的な原因じゃない。
 赤ちゃんをすぐに返されたことも同じ。
 たぶん、夢の中のキッチンの女はこんなことを繰り返してきたのだろう。
 繰り返し、繰り返し、細やかな「嫌なこと」を重ねてきた。わたし(ではないわたし)は何も言い返さずに不満を溜め込み、今ここで怒りが沸点を越えた。 
 わたしは泣いた赤ちゃんを布団に優しく寝かせる。そして、キッチンへと向かう。

「何してんの?」

 泣いている赤ちゃんをあやさないわたしを非難めいた目で見下す母親。

(なんで逃げないの?)

 なぜこの人はわたしから逃げないのか。
 夢の外の意識が疑問を投げかけても、もう止められない。

「義理のお母さんは、出産直後の私を見て、笑ったの。お腹が出てるね、本当に産んだの? まだお腹の中にいるじゃないの? って」

 わたしは知っている。それを言われた時も怒りに震えたこと。抑えられない怒りは頂点に達した後、むしろ穏やかな心持ちになった。何をすべきかわかったからだ。

「義理のお母様が子どもを産んだ時はさぞかし美しい産後の姿だったのでしょうね。産んだ直後の体型の美しさなんて、どうでもいいんだけど。誰に見せる気なんだろうね。きれいな産後の体型を見せて何をしたいんだろう。きれいねって褒めてほしいのかな? 産んだ直後に?」

 わたしは知っている。
 義理の母親も密かに、わずかずつ、わたしに嫌味を重ねたこと。見た目のこと、気が利かないこと、頭が悪いこと。わからないように、できるだけ良い義母を装いながら嫌味を重ねていたつもりらしいが、わたしは全てわかっていた。
 そして、穏やかになったわたしが義理の母親に何をしたか。そして、同じことを今、母親にもしようとしている。

 わたしは知っている。

(苦しい)

 でも、これは夢だ。

(夢から覚めたい)

 気づくと、目の前が赤くなる。夢の中の視界は赤く染められる。

(いやだ。こんなに赤いのはいやだ)

 ぎゅっと目を瞑りながら、これは夢の中なのか外なのか、わからなくなっていた。

 ふいに肩を揺さぶられて目を覚ました。

「奈桜」

 電車の中だった。人が押し込められた車内の熱気と湿度が意識を現実へと覚醒させていく。

「もう着くよ」

 隣の座席からわたしの顔を覗き込むのはK子だった。

「大丈夫?」

「大丈夫」

 答えながらあたりを見回す。バイト終わり、帰宅ラッシュの電車に乗り込んだ。たまたまつかまったつり革だった。目の前に座っていた人が途中で降りて、他に譲る人もいなくて、奇跡的に座れた。そこまでは覚えている。

(寝てたんだ)

 嫌な夢を見たせいで汗をかいていた。

(K子はいつの間に?)

 K子は当たり前のように隣に座っていた。電車はすでに減速していて、窓の外は駅のホームで電車を待つ人の列が見えた。

ーーМ、М駅。お出口は右側です。

アナウンスが流れ、電車から降りる。

「混んでたね」

 K子が言う。

「うん」

 K子の隣をのろのろと歩いていく。

「あれから元気になった?」

「あれから?」

 わたしはまだ夢の中にいるみたいで、足元がどこかふわふわしていた。

「しっかりしてよ。三日前に、奈桜は切り裂き魔の犯人じゃないって証明したじゃない」

「ああ」

 あれは三日前のことだったのか。
 血の着いたカミソリを自分のカバンの中で見つけて、切り裂き魔の犯人は自分なんじゃないかと怖くなったあの日。事件が起きた時間に近所の人と喋っていたと、K子に思い出させてもらった。

(でもね。母親はその日毛布なんてほしていないって言うんだよね)

 スーパーの前にさしかかるとK子が立ち止まる。

「今日はここで」

「うん、わかった」

「じゃあ、また明日」

「明日?」

 わたしは首を傾げた。たしかに明日は休日だけど、なんの約束もしていない。

「奈桜、忘れたの?」

「たぶん」

「やだなぁ。明日泊まりに行くっていったのに」

「泊まり?」

「そうだよ。たのしみにしているから」

 K子は手を振り、さっさとスーパーへと入っていく。

 わたしも直ぐ様背を向け歩き出した。見上げると空はすでに夜だった。

 毛布を届けに来た黒川さんは最近ずっと留守にしているらしい。理由は誰も知らない。だから、あの夜本当に黒川さんがわたしを訪ねてきたのか、確認できないでいる。もちろん、そのことをK子に言うつもりはない。

 だってK子は、煙のように消えてしまうかもしれないのだから。



続く

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