【おじいちゃんと甲子園】
大きなサイレンとともに脱帽し、額の汗をそのままに、目を閉じている球児たちの姿が、TV画面に大きく映し出されている。
その姿を前に、牛頭町の居間、いつものように座椅子に腰かけたおじいちゃんも、硬く目を閉じ頭を垂れている。
終戦記念日、夏の甲子園、いつもおじいちゃんは黙祷する。
私がまだ小さかった頃、夏の甲子園で、正午のサイレンがなると、おじいちゃんは横にいる私に
「さぁ、目ぇ閉じ」と促した。私はおじいちゃんを真似てギュッと目を閉じるのだが、すぐに薄目を開けては、変わらぬ姿勢で目を閉じているおじいちゃんの姿に驚き、慌てて目を閉じては、またすぐに薄目をあけ、おじいちゃんの様子を伺っては何だか可笑しくてニヤニヤ、を繰り返していた。
おじいちゃんは野球を筆頭に相撲、バレーボール、ラグビー、競馬等、TVでのスポーツ観戦が好きだった。
ある時、相撲中継を見ていると
「はな子ちゃんは、相撲、見に行きたいか?」とおじいちゃんが聞くので、私を相撲観戦に連れていってくれるのではと期待し、「行きたい!!!」と元気よく答えるも、「おじいちゃんはいらんわ。」と言うのでズッコケた。
「え、おじいちゃんなんで、す、すごい迫力やで、すぐ近くで見られるんやで、いいやんか!お弁当も食べられるで!」と、私は、私の勝手な期待を現実にすべく頑張ってみたが、
「おじいちゃんはTVが一番や。わざわざ人混みに行かんかて、クーラーの効いた部屋で、トイレも行きたい時に行けて、際どい試合は大きいに拡大してくれたり、ゆっくり何回でもやってくれるんやから、極楽や。お弁当は食べたいけどな」とおじいちゃ
んはあくまでTV観戦がいいと教えてくれた。
おじいちゃんの好きなポーツ観戦の中でも、高校野球は別格で、毎夏毎春欠かさずTV観戦をしていた。
「おじいちゃんな、和田(みきた)旧制中学校の時は野球してたんや、甲子園を目指したこともあったんやで。残念ながら甲子園には行かれへんかったけどな。」
「あ、私の高校でも、野球部が練習終わって最後に校歌歌ってたことあったわ。予選の前やったと思うわ」
「お~そうかいな、えらいな、暑い中練習してなぁ。おじいちゃんも、よう練習したんや、監督が夏の暑い中、1000本ノックや!フラフラになりながら、あっちこっちに飛んでくるボールを
こーーーーやって取ってな。」とおじいちゃんは大きく手を伸ばしてみせた。
「その当時は、水飲んだらあかんって言われてやな、根性論や。おじいちゃん、だんだんボーっとしてきてな、気失のたんや。」
私は急な展開に驚き、思わず声を上げた。
「えッ!おじいちゃん、倒れたん?!えーーー、水飲まなあかんで、今やったら殺人行為やで」と言うと
「そうや、ほんまに今はその逆で、水飲まなあかん言うんやからなぁ」
「おじいちゃん、それで大丈夫やったん?!」
「医務室に運ばれてな。気ついたんや」
こうしておじいちゃんが高校球児だったことを知ったのも、夏の甲子園を見ている時だった。
「おとうちゃん、今日は熱おますから、TV一区切りつきましたら、シャワーでもどうですか?」と、おばあちゃんが声をかける。
おじいちゃんがTVでのスポーツ観戦と同じくらい楽しみにしているのが毎日のお風呂だ。
暑がり汗っかきお風呂好きのおじいちゃんには、夏場はよくおばあちゃんがシャワーやお風呂を薦めていた。
なので、私が小学校にあがった頃、夏休みに牛頭町にいくと、お風呂あがり、シャワーあがりのおじいちゃんと出くわすことが多く、その時のおじいちゃんは、いつも背の高いおじいちゃんの膝が隠れるくらい大きな分厚いバスタオルを腰に巻き、一回
り小さいサイズのバスタオルを肩にかけ、少し汗が引くまで、クーラーの利いたリビングで、扇風機の風を受けながら涼んでいる。
「おじいちゃん、お風呂入ったん?」と聞くと、「シャワー浴びたんや。今日は熱いやろ、サッパリした!」と言う。
それを聞いておばあちゃんは「サッパリしましたやろ。それはよろしおましたな」と、いつも目を細めていた。
おじいちゃんの汗が引いてきた頃、「はな子ちゃん、ちょっと背中吹いてくれるか?」とおじいちゃんが言うので、肩に羽織っていたバスタオルをもらう。
小さい時、おじいちゃんと一緒にお風呂に入っていると、母やぶうわ、おばあちゃん
がお風呂場をのぞき込み、「おじいちゃんの背中ゴシゴシしたげて」と言われ、おじいちゃんが準備してくれた石鹸付きタオルをもらい、私は「ゴシゴシ、ゴシゴシ」と言いながら、それにあわせ大人たちも「ゴシゴシ、ゴシゴシ」と大合唱をして、ゴシ
ゴシしていたおじいちゃんの背中だ。当時からその傷があるのを知っていたのに、その傷を認めたのはおじいちゃんの背中を拭いているその時だったように思う。
「おじいちゃん、この傷どうしたん?」
「ああ、ちょっと昔ケガしたんや」
「触っても痛くないん?」
「痛ないよ」
「ほんまに痛くない?触っていい?」
「ええよ」とおじいちゃんが言うので、
タオルで大きい背中を2度3度しっかり拭いて、その大きな傷を、そっと指で撫でてみた。
「え、ほんまに痛くない?」
「痛ないよ。」
その傷はおじいちゃんの左脇腹から背骨の胸椎の真ん中あたりまであって、稲光が下から上へ走ったような傷の形状で、皮膚はやけどをした後のようにケロイド状になっていた。
私が「何でケガしたん?」と聞くと、「鉄砲で撃たれたんや」とおじいちゃんは言った。
「うそ~、鉄砲?うそや~」と当時の私は冗談だと思い、可笑しくてケラケラ笑った。
その時のおじいちゃんがあまりに静かだったので、子供ながら、そのことにはあまり触れない方が良いのかと『おじいちゃんは昨日みた刑事ドラマを思い出してそんな冗談を言うのかな、変なの』と自分勝手に納め、そのままになった。
私が高校生の頃だったか、夏の甲子園の黙祷の後、その前日、父方の祖母(私の父の母)が部屋を整理した際に出てきた写真のことを思い出した。
その写真は、父方の祖父(私の父の父)の軍服姿の騎乗写真で、その姿は、とても凛々しく、セピア色のその写真は、戦争のドラマや映画に出てくるワンシーンさながらで、青木のおじいちゃんが実際に戦争に行っていたのだという事実がまざまざと感
じられ、それまではドラマや映画の中だけだった世界が、急に身近になり、怖くなった。
「おじいちゃん、あんな、昨日青木のおばあちゃんが部屋を片付けてたら、昔の写真が出てきてさ、青木のおじいちゃんが馬に乗ってる写真があって、驚いた。軍服着てたわ。」私がそう言うと、
「そうか、青木のおじいちゃんは、どこに行ってたんやな?」とおじいちゃんが聞くので
「南方って言ってた、今のフィリピンやったかな。
そこで、現地のアジナルさんって人ととても親しくしてたから、敗戦後、おじいちゃんが日本に戻ってくる時に、離れがたくて、アジナルさんを真剣に一緒に日本につれて帰りたいと思ったらしい。
『一緒に日本に来るか?』とアジナルさんに言ったって。
ママが言うには、青木のおじいちゃんは事あるごとに、『アジナルに会いたい』って言ってたらしいわ。おじいちゃんは戦争行ってたん?」となぜか口をついて出た。
「おじいちゃんはな、沖縄に行ってたんや」
「え、沖縄?激戦地やんか!え、ほんまに?よく生きて帰ってこれたな、おじいちゃん」
「そや、そやで、おじいちゃんな、アメリカ兵から逃げる時に鉄砲で背中を撃たれてな、捕まって、捕虜になったんや。その時捕まってなかったら、死んでたで。」
「え、おじいちゃんの背中の傷ってその時の傷なん?!ほんまに鉄砲で撃たれたん?!」
「そうや、えらい傷でなぁ、でもアメリカでは捕虜をきちんとせなあかんっていうのがあったから、手術してくれて。あれ、撃たれて捕まったからよかったんや。捕虜にならなんだら、死んでたで。」
おじいちゃんはアメリカ兵から逃げる時の様子や、銃弾に倒れた時のこと、手術のこと、術後にウジ虫が湧いたこと、捕虜となった時のこと等を話してくれた。
「おじいちゃんもな、沖縄の時、現地のな、金城さんって人にようしてもろてなぁ、沖縄が本土復帰してから沖縄に行くことがあって、その時に、思い切って電話帳で一件一件電話かけて、その人を探したんや」
「え、で、どうしたん?見つかったん?」
「で、電話してたらやな、その人が見つかってな、『私戦争の時に世話になった高野です。沖縄に来てて、●●ホテルに泊まってるから、良ければ会いませんか?』って言って、いついつ何時にホテルのロビーでと、会う約束をしたんや。」
「で、会ったん?」
「いや、こなんだんや。待ってたんやけどな」と言っておじいちゃんは少し暗い顔になった。
「え~~~、何でやろ、何かあったんかな?」
「戦争で色々あったから、金城さんも思うところがあったんかもしれんな」
これが、私が初めておじいちゃんから聞いた戦争体験だった。
それから随分と後に、母やぶうわに、おじいちゃんから戦争の話を聞いたことを話すと
「私ら聞いたことないわ。なぁたつ子ちゃん、聞いたことある?」
「聞いたことない。私、お父ちゃんが沖縄行ってたなんて知らんかったわ」と母が言った
尼僧作家の瀬戸内寂聴さんが、
『辛いことは、時間しか解決できないの。時がたてばいつか辛いことも薄れてくる。それを辛抱してじっと耐えるしかないのよ。』と言っていた。
おじいちゃんの間違いのない、想像すら超えた凄惨な重く辛い体験。
私はおじいちゃんの娘でなくて、孫で良かったと思った。おじいちゃんの辛い記憶の昇華点の始まりに一緒に居られたのかもしれない。
【ふーちゃんたーちゃん】|gentle_daphne389 (note.com)
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