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わしの眼鏡知らんか?

 磯野さんちの波平はなんだっていつもあんなに眼鏡ばっかり探してるんだろう。
おでこの上にあるじゃないか。
ふつう探すか?おでこの上だぞ?
 若い頃はそんな波平を、ただのうっかり父さんだと思ってそれで済ませていたが、恐ろしいことにこの頃自分がそれと同じ事をするようになった。

 近眼の人は老眼にならない。
厳密に言うと老眼にならないという訳ではなくて、元々近すぎた焦点が加齢によって遠のいただけなので、今まで見えにくかった遠くのものが見やすくなるし、裸眼のほうが小さな文字が読みやすくなる。
ただ、視力が良くなったという事ではないのでやっぱり眼鏡をかけなければ、遠くは見づらい。

たとえば波平が朝刊を読んでいる。
波平はもともと近眼でしかも高齢者だから、新聞の小さな文字は近視用の眼鏡では読みにくい。
眼鏡を外してその辺に置いて、後でどこに置いたか思い出せなくて家探しするという事を何度も経験しているので、チョイと頭の上に押し上げて新聞を読む。
その横でカツオがテレビを見ている。
「お父さん、この人知ってる?ボク、この人のファンなんだ。」
カツオの言葉にテレビの方を見る波平。
何かぼんやりと女の子の姿が見えるが、よくわからない。
頭の上の眼鏡を下ろしてかけなおし、テレビの中のタレントに見入るが、見たところで若者の顔はどれも同じに見えてしまうお年頃の波平は、
「知らんなあ。それよりお前、宿題はやったのか?」
と、叱言を言いながら眼鏡を頭に戻し、再び新聞を読み始める。
ふと時計に目をやり、
「お、ニュースの時間だ。」
とまた眼鏡を下ろしてかけ直し、テレビのニュースを見る。
そこへフネが来て、
「お父さん、博多の海平兄さんから手紙が来てますよ。」
「海平兄さんから?なんだ、何かあったのか?」
また眼鏡を頭の上に押し上げて手紙を読み始める波平。
「海平兄さん、何ですって?」
「この間お歳暮に送った芋羊羹の令状じゃ。
兄さんも律儀じゃなあ。」
「そうですか。あら、もうこんな時間。
お父さん、会社に遅れますよ。」
「おお、こりゃいかん。」
慌てて背広に着替えて、家を出ようとするも眼鏡がない。
テレビの前まで戻って探すが、やっぱりない。
そして、
「母さん、わしの眼鏡知らんか?」
「あらいやだお父さん、頭、頭。」
と、いう事になる。

 初めて私が自分の頭の上の眼鏡を探したのはいつだったろう。
マンガのネタだと思っていた事が、実際に自分の身の上に起きた時は愕然としたものだ。
 スーパーに買い物に行く。
商品がよく見えないので、買い物中は眼鏡をかけている。
ところが精算する時に財布の中の小銭が分かりにくい。
分かりにくいから波平スタイルで、眼鏡を頭の上に上げておく。
精算を終えて荷物を車に積み込み、運転席でカバンの中をゴソゴソ探す。
もちろん眼鏡を探しているのだ。
「あけみさん、頭、頭。」
とは誰も言ってくれないのでしばらく探して、「あっ」と頭に手をやって、そして落ち込む。
 せわしなく眼鏡をかけたり外したりする「波平シンドローム」は、近視の人なら共感してくれるだろう。

 私は元から粗忽者なのでこういうウッカリには慣れているが、その頻度は確実に上がってきている。
ケータイを握りながらケータイを探す。
なんで冷蔵庫を開けたのか思い出せない。
アノホレアレソレで全然話しが進まない。
こういった事は、今はまだ我ながら面白がりもできるが、家族から認知症を疑われだすともうあんまり笑えない。

 私の大好きな仙厓義梵という禅僧は、「老人六歌仙画賛」という絵を残している。

仙厓義梵「老人六歌仙」18世紀
右端の半ケツ出しているのは孫の手で背中をかいている。

平安時代の歌人達を六人のキュートな老人の姿に描いていて、絵も面白いがそこに入る賛がもうそれ以上に面白い。

「しわがよる ほくろができる 腰曲がる 頭は禿げる髪白くなる 手はふるう 足はよろめく歯はぬける 耳は聞こえず目はうとくなる 身にそうは 頭布襟巻き 杖めがね タンボ温石 手便孫の手 くどくなる 気短かになる でしゃばりたがる世話焼きたがる 聞きたがる 死にともながる淋しがる 心ひがむ欲ふかくなる またしても おなじ話しに孫ほめる 達者自慢に人はいやがる」
 
わかったからもう勘弁して下さいと言いたくなるような老化現象のオンパレードだ。
「年はとりたくないね」と言う人は言うが、でもこうなってこそ一人前と、この賛の最後につけ足したいような気もする。

 「士農工商」というカーストは実は存在しなかったという議論が起こっているそうだが、江戸時代の若者はたとえ自分よりも身分の低い者であろうと、老人には「御老体」と敬称で呼んだ。
自分が生まれる前の時代を知る老人へのリスペクトを、「年功序列」という言葉で教育されていたのだろう。
 「老害」という悪口がはびこる現代、年をとる事は悪でしかなく「美魔女」とか「イケおじ」とかいう言葉に踊らされた挙句、私たちは年のとり方がわからなくなってしまった。
だから突然「高齢者」の括りに入れられて、ショックを受けたり憮然としたりする。
超・高齢者大国なのに。

 女に生まれた者の業で、鏡を覗いてそこに映るシミ、シワ、たるみに心が暗くなる。
「美魔女」という言葉にひれ伏したくなる時もある。
でもね。
眉間のシワは、痛みに耐えてきた証しだ。
目尻のシワは、慈しんできた証し。
ほうれい線は、笑い飛ばしてきた証し。
これが年相応というものだ。
その「年相応」が、今はあんまりよく分からないから、波平を指標にしたりする。

 おでこの上に乗せた眼鏡を探す。
それをした事で、私はすんなり波平側に行く事ができた。
さて、次の指標は何だろう。
どんな初体験が待ってるんだろう。
そんな事を考えるとゲンナリするけど、何だかちょっとワクワクもしたりして。
 
 そういえば百歳になった時、金さん銀さんも言ってたなあ。
「嬉しいような、悲しいような。」
今思えば深い言葉だ。
深すぎる。









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