猫飼って、IQ一気にだだ下がり。
ネコを話題にする事のあざとさは、よく承知している。
承知の上で、やっぱり語らずにはいられないのがネコのあざとさだ。
私は美容院での美容師との会話が苦手で、つい気になりながらもカットやカラーを先延ばしにしてしまう。
ところが何かの拍子に、担当の美容師がネコ派と知ってしまうと、とたんに旧知の間柄になる。
「えっ、ネコ飼ってらっしゃるんですか?ウチもですーっ。」
「えーっ、どんなコどんなコ?」
「マンチです。お客様のところは?」
「ウチは雑種。なんせ野良上がりだから。」
「ウチのコは女の子なんですけどぉ…」
「えーっ!ウチもなのォ!」
「ごはんは?カリカリ派ですか?それともウェット?」
「カリカリ。ウェット高いもん。」
「わかるーっ。」
後で振り返ってみたら、それがどうしたというような会話だが、これがネコ派あるあるなのだ。
イヌ派も同じようなものかも知れないが、ネコ派のIQの低下率はハンパではない。
イヌは人間にかしずくが、
ネコは人間がかしずく。
バカになるのは当たり前だ。
ウチのネコは10年ほど前に迷い込んできた元野良で、その頃はやっと乳離れしたくらいの子ネコだったから人間の歳でいえば私とタメくらいだろう。
2月のいちばん寒い時期にウチの庭に住み着いて
「ここで飼ってくださいっ!」
と、ニャーニャーアピールされて、結局根負けして迎え入れたのだ。
動物を飼うという発想が私たち家族には全くなかったので放っておくつもりだったが、朝玄関を開けたらカチカチに凍った猫の死骸が転がってるなんて想像するだけでゾッとした。
仕方なく、
「じゃあ置いてやるか。その代わり絶対テーブルの上には乗んなよテメー。」
と、実に恩着せがましい態度で飼い始めた訳だが、今や立場は逆転している。
あれだけブリッ子アピールしておきながら家に入れたとたんに本性出しやがった。
膝に乗りに来るでなし、玄関でのお見送り、お出迎えがあるでなし、スリスリに至っては一回もされた事ない。
「釣った魚にエサはやらない」というが、私たち家族は釣られた訳だ。
この野良上がりのネコに。
飼い始めてすぐの事だった。
空腹でいることが常態だったからか、このコはキャットフードを貪り食ってはよく吐いた。
わたしはある日、その吐瀉物の中に軍手の指先が混じっているのを見つけた。
「あんたも苦労したんだねえ、その小さな体で。」
さすがに胸に迫るものがあった。
今思えばそれが、しょうことなしに飼い始めたネコに、私から歩み寄った最初だった。
こうなるともう勝ち目はない。
あとは転がり落ちるばかりだ。
私たち家族はこの愛想もクソもないネコへの愛に溺れ、もともと低かったIQはだだ下がりに下がった。
「IQが下がる」
これが猫を飼うものの宿命だ。
この間、三億円という遺産を相続した猫の話しを聞いて、私は夫に尋ねてみた。
「ねえお父さん、ウチのチビ、三億で売ってくれって言われたら売る?」
夫は思案するそぶりもなく、
「売らん。」と言った。
「三億やでっ?」
「売らん。」
実際、目の前に三億円積まれたら思案も変わるかも知れないが、
「でしょうねー。」とは思う。
夫はもともと、うっすらとアスペルガーの兆候があったようで、何かを愛し慈しむという事が苦手な人だ。
子供たちが小さい頃も、あやしたり可愛がったりという事はほぼなかった。
だが、愛情がないという訳ではない。
愛情の示し方が分からないのだ。
チビが近所の野良猫と喧嘩して大怪我をした時、血相変えてペットクリニックの救急外来へ車を走らせる夫の姿を見て、やっと私はその事を深く理解した。
この人は、ちゃんとこういう事が出来る人なのだ。
人間の子供は思いもよらない事を言ったり、やったりする。
夫にとって、この予測のつかなさは「可愛がる」というハードルを上げていたのだろう。
猫は安心して可愛がれる。
「可愛がる」という事に安心出来るようになって夫は変わった。
もともと優しい、穏やかな人だ。
自分は優しい人間なんだと、夫は気づく事が出来たのだろう。
無愛想で、甘える事も抱かれる事も嫌いな癖に絶対に人を攻撃しないウチのネコは、どこか夫に似ている。
子供たちに進んで向き合おうとしない夫を、私は長い間心の中で責めて来たが、私もまた、夫を理解しようとはしなかったのだと思う。
「チビはウチに来て、お父たんを幸せにしてくれたねー。
おたーたん(私の事)には出来なかった事をチビはしてくれたんやねー。
チビは賢いコやねー かいらしコやねー 尊いコやねー。」
自分とタメのネコに向かって私は話しかける。
ここまで来るとIQも底をついた感がある。
時には説教もする。
「チビはお父たんのご恩を忘れたらダメなのよ?
お父たんがいいよって言ってくれたから、チビはウチのコになれたのよ?
チビがその辺のゴロツキと喧嘩なんかして、また怪我したらお父たん泣いちゃうよ?
あんたは来世は人間に生まれ変わってくる、尊いネコやねんから喧嘩なんかしたら…って、ちょっと、アンタ聞いてんの?!」
説教でネコが態度を改める訳がないのだが、筋金入りのネコバカに成り下がった私はチュールを片手で見せびらかしながら、そんな事を常々言い聞かせている。
決して人には見せられない光景だ。
「猫なんか飼うんじゃなかった。」
チビが喧嘩で大怪我した時、病院へ走る車の中で、私はつくづくそう思った。
脇腹を噛まれてそこが化膿し腫れ上がっていても、このコたちは痛いという事を私たちに伝えるすべがないのだ。
物陰に隠れて傷が癒えるまで、じっとしている事しか出来ない。
私はこんな頼りないものの命を引き受けてしまったのだ。
考えてみれば猫の寿命は、どんなに長生きしても20年ほどだ。
このコとは、あと10年一緒にいられるかどうかわからない。
腹を決めるしかなかった。
あんたを失うその日が来ても、狼狽えずにちゃんと看取ってあげるよと。
説教のとき、今は必ずひとつ付け足して言う。
「長生きしようねー。」
まあ、私の方が先かも知れないんだけど。