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「PERFECT DAYS」 まーた役所広司にヤラれた!
ネタバレかも知れません、ごめんなさい。
なんなのこの人。
訳わかんない。
泣かせる映画なんて大嫌いだ。
なぜってそりゃ泣いちゃうからだ。
だから泣かせに来る映画は観ないようにしている。
映画を観て泣くなんて、どうしても負けた気がしてハラ立つ。
「PERFECT DAYS」が泣かせる映画かどうかは知らないが、完膚なきまでにノされた。
なんなの役所広司。
訳わかんない。
今まで特にファンだとかなんだとか言って心酔した役者ではなかったが、この人が出演している映画は何故か安心して観る事ができた。
「いいわー、役所広司。」
これで充分だったのに。
「PERFECT DAYS」にあらすじはほぼないので、ネタバレの心配はないようなものだが、映像のディテールや音楽について事前に知ってしまうと台無しになってしまう。
私にとってそんな映画は初めてだった。
「PERFECT DAYS」の主人公、平山さんは「Tokyo Toilet」の清掃員で、東京中の公衆トイレを掃除して回っている初老のおじさん。
スカイツリーのふもとの、築何十年かもうわかんなくなっているようなボロアパートに住み、僧侶のような暮らしをしている。
台詞らしい台詞はほとんどなく、私たちは平山さんの規則正しい毎日のルーティンを延々と見させられる。
朝、近所のおばさんが通りを掃除する箒の音で目を覚まし、身支度を整え出勤する。
仕事が終わると地下の飲み屋で一杯やって、夜は文庫本を読みながら眠りにつく。
翌朝また起きて布団をたたみ、神社の木の根元から持ち帰った苗たちに霧吹きで丁寧に水をやり、歯を磨き、顔を洗い、髭の手入れをする。
玄関に整然と並べられた車のキー、腕時計、小型カメラなど順番に身につけるとアパートを出る。
大切に育てている苗木のために、部屋の明かりは消さない。
自販機で缶コーヒーを一本買って、アナログなカセットテープで音楽を聴きながら車を走らせ、仕事場に向かう。
このルーティンが、まるで念を押すようにくり返される。
平山さんが時々見上げる空や木。
画面がとにかく美しい。
「うわぁ、アート系かぁ。」
観ている私はちょっとビビり始める。
「苦手なヤツやん…。」
それにしても平山さんはなんでこんな生活をしてるんだろう。
元々の性格なのか、犯罪を犯した過去があってその贖罪をしているのか、それとも逃亡中とか?
この映画は結局、最後までそれを教えてくれない。
でも映画の中盤で、家出して来た姪を平山さんの妹が迎えに来るシーンでは、平山さんの過去を少しだけ覗かせてくれる。
平山さんの妹は、運転手付きの高級車で娘を迎えに来る。
この事で私たちは平山さんの出自を、ちょっとだけ想像する事ができる。
平山さんは飲み屋で食事する時も、箸の持ち方がすごく上品で育ちの良さが伺える。
「住む世界が違う」と妹に言われていること。
父親との間に大きな確執があったこと。
その父親はもう施設に入っていて、何も分からなくてなっていること。
その確執がどれほどのものであったのか、平山さんがどれほどの絶望の末、今そこにいるのか。
妹たちが帰った後に、子供のように涙を流す平山さんを見て私たちは想像しようとするが、翌朝いつものように木々を見上げて微笑む平山さんは、それ以上の事を私たちに語ってはくれない。
過去は消せない。
それでも平山さんは毎晩寝入りばなに、木々から降り注ぐ木漏れ日を感じながら眠りにつく。
まるでモネの絵画をモノクロにしたようなイメージの中で眠りに落ちて、翌日にはまた、満たされたように微笑む平山さんが一日を始める。
真新しい一日を。
この映画はアニマルズの「house of the Rising sun」という曲から始まる。
私の大好きな曲だ。
その家はニューオリンズにあって、みんな「朝日のあたる家」って呼んでたよ
そこでは大勢の貧しく破滅したヤツらがいたよ
そう、オレもそのひとりさ
オレのおふくろは仕立て屋で、オレのためにブルージーンズを作ってくれた
親父はギャンブル狂で、ニューオリンズに入り浸ってたよ
親父に必要なのはスーツケースとトランク
親父が満たされていると感じるのは、酒に酔いつぶれている時だけさ
子供がいるなら教えてやってくれ
オレみたいにはなるなってな
こんな罪深い惨めな生き方はするなって
朝日のあたる家でなんか過ごすんじゃないってさ
片足をプラットフォームに残し、もう片方は列車に乗ろうとしている
ニューオリンズに戻って、鎖と足枷をつけるためにな
劇中でも、スナックのママ役の石川さゆりが日本語版の「朝日のあたる家」を歌っている。
これも大好き。
カラオケで私のオハコだ。
そして映画はニーナ・シモンの「Feeling good」で終わる。
この曲出してくるなんて、ホントずるい。
空高く飛ぶ鳥たち
私の気持ちがわかるでしょ?
輝く太陽 ねえわかるでしょ?
吹き過ぎていくそよ風 わかるわよね?
新しい夜明け
新しい一日
新しい人生
なんていい気分なの
一日が終わって安心して眠る
私が言ってるのはそういう事なの
古びた世界は新しい世界になり
そしてそれは私にとって確かなものになる
星たちが輝く時
松の木が香る時
ねえわかる?
自由は私のものだって
私はそう感じるの
平山さんは毎晩、木漏れ日の中で生涯を閉じ、箒の音で目覚めて、また新たな人生を始める。
映画の中にはトイレの清掃員を蔑む人も登場するし、仕事をすっぽかして辞めてしまう同僚もいる。
平山さんにだって日々の営みの中で、ムッとしたりイラッとしたりする事はもちろんあるが、翌日にはきれいに浄化された平山さんがまた始まる。
もしかしたら平山さんだって、心象風景としての「house of the Rising Sun」の世界観を抱えているのかも知れない。
ガールズバーの女の子。
いいかげんな同僚。
トイレの中で泣きじゃくる子供。
ダウン症の少年。
誰もがみんな、それぞれに生きづらさを抱えている。
だからこそ、最後にかかる「Feeling good」は胸に強く刺さる。
私たちはそこに「救い」を見るからだ。
何年か前、私はボランティアで駅前の公衆トイレの掃除をしていた。
一緒にやっていた友人が病気で続けられなくなったのを潮にもうやめてしまったが、今思えば、かけがえのない経験だったと思う。
跪いて便器を磨くという行為は、ともすると卑屈になりがちだが、謙虚な自分を育てるのにすごく適している。
「いつもありがとう」と声をかけてくれる人もいれば、「ここ、ちゃんとしろよ」と文句を言って出ていく人もいる。
公衆トイレというのは、不特定多数の人が利用する。
しかもそこは排泄という、人間が一日も止める事の出来ない行為を支える場所だ。
「なんか、私たち修業してない?」
なんて友人と笑いながら話したのを、この映画で思い出した。
平山さんは別に僧侶でもないし修業をしている訳でもないが、彼のミニマムな生き方にはやっぱり憧れる。
平山さんの姪が母親に連れられて帰って行く時、アパートの鍵を開けるシーンがある。
よく見ると、平山さんはアパートに鍵なんかかけないのだ。
姪の荷物があるから鍵をかけてただけで、普段はかけない。
育てている苗のために、電気はつけっぱなし。
鍵は開けっぱなし。
アパートの2階二間が平山さんのサンクチュアリーで、そこはいつも掃き清められ美しく整頓されているが、盗まれて困る物は何もないのだろう。
階下には平山さんの過去が押し込められている様子だが、そこにも鍵をかけて守らなければならない物は何もないのだと思う。
スナックのママの元ダンナが、平山さんに自分の病気の話しをするシーン。
癌が転移していることを打ち明けていて、ふと、
「影って、重なると濃くなるんですかね。」
と、漏らす。
この時平山さんは何故か、濃くなるに決まってると断言する。
大のオッサンが二人して、街灯が作るふたりの影を合わせて
「濃くなってますよ、ホラ。」
とか、いろんなポーズをとっている。
「濃くなってなきゃおかしいですよ。」
と平山さん。
「何も変わらないなんて、そんな馬鹿な話しないですよ。」
元ダンナは、励まされたことを感謝するように平山さんの背中に向かって頭を下げる。
その翌日、平山さんは仕事に行く車の中で、この映画の最後の曲、ニーナ・シモンの「Feeling good」をかける。
いつものように微笑みながら新しい一日を始めたはずの平山さんは、でもやっぱりいつもと違う。
新しい、真っさらな一日の始まりへの喜び、感謝。
でもそこに同居する前日の影。
深い悲しみ、哀れみ、やるせなさ。
平山さんのいろんな気持ちがシンクロしてくる。
もう、役所広司の顔のアップから永遠に目が離せなくなって、仕舞いにハラ立ってくる。
「あーあ、ヤラれた。
まーた役所広司にヤラれた。」
涙とハナでグズグズの顔になってるくせに、悔しまぎれの悪態をつく。
これだから、いい映画って困るんだ。