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『 自然 = 自然 』 ( しぜん = じねん )




『 自然 』( じねん )= おのずから  しかり


鈴木大拙氏を、これまであらゆる所で紹介してきました。それと言うのも私が最も影響を受けた人物であると共に、世界的にみても他者とは比べようもない程大きく、かつ偉大な人であると言う 疑いようもない確信があって、何より是非とも皆さんに知っていただきたいと言う一念からの事です。
これからも、ほとんどが鈴木大拙氏の紹介になってしまいますが、如上の理由であるという事をもって理解して頂ければ幸いです。

鈴木大拙氏は若い時から仏教の世界に身を投じ、それ以降あらゆる仏典、仏語、禅籍、禅語を研究されて来た方ですが、ある著書の中で、明治時代に、英語のネイチャーの訳として「 自然 」の言葉を使ってしまった事は大きな失敗で、痛恨の極みだ とさえ言っています。それは仏教において「 自然 」とは「 じねん 」と読み、「 おのずから しかり 」の意味を持つ、仏教で大変重要な言葉であったからだと言います。この「 自然 」( じねん )の言葉を失ってしまった事は多大な損失であったとしています。
この点については、仏教の真諦にまで達する事柄ですので当然のことながら私に理解など出来るはずも無く、鈴木大拙氏の文章をそのままお伝えしたいと思います。
長くなってしまいますが「 東洋の世界 」というものを理解する為に非常に大切なものの様な気がするのです。そのような世界に興味を持っていらっしゃる方々に是非とも読んでいただければ と思います。
その後で、僭越ながら、この点について私の感じた事なども書いてみたいと思います。


  西洋的のネイチュアといふものを「自然、自然」と云って来てをると思います
 。これが、私が不平なところで、東洋の自然といふことは、西洋のネイチュアに
   當る點もあるけれども、併し甚ださうでない點がある。そのない點に東洋的なも
   のの最も根本的なものがあると云ふのです。それは何故かと申しますといふと、
 自然の自といふ字は. . . (中略)「おのずから」と普通に云ふんですね。
   この自然といふこと、「自ら然る」(おのずからしかる)といふですね。まあ
   「然る」といふのは、「そうである」といふことで、その「おのずから」といふ
   事がどういふ意味になるのかですね。

  鈴木大拙.(1970).『鈴木大拙全集第27巻』.「禅に關して」.pp.157-8.岩波書店.


  「そのまま」も「おのずから」も、體驗上の言葉で、思想的に分析してからの 
   ものではない。老子が「道は自然に則る」と云ふとき、その「自然」は「おのず
   から然るもの」の義で「柳は緑、花は紅」である。そこに道があると云ふのだ。
   神がモーゼにその名を問はれて、「自分はあるがままのものだ」と答へたと云ふ
   、それが實に「そのまま」で、即ちおのずからなるものの義に外ならぬ。
   (中略) 神の道破底、即ち「そのままに、おのずから然るもの」に外ならぬの
   である。老子の「無為にして為さざるところなし」の無為が即ちその「自然」で
   ある。 (中略) 活潑潑地の一物、未だ天地有らざるとき、天地に先だちての
   存在底であることを忘れてはならぬのである。「無為」とか、「無心」とか、
   「無念」とか、「無義」とか云ふときの無の義は、欧州系の字彙には見當らぬや
   うだ。 (中略) 東洋系はこれに反して、朕兆未分前に眼を著ける。「光あれ」
   との一句が、まだ神の口頭を離れないときの、神の心裡に飛び込んだものでない
   と、東洋的な見方の基底に觸れ得ないのである。「おのずから」の出處は、それ
   故に、論理以前だと云って然るべきだ。

鈴木大拙.(1970).『鈴木大拙全集第30巻』.「只麽と自爾」.pp.364-5.岩波書店.


  この自然(じねん)といふことを今申したやうなネイチュアの譯にしては、或
   る點ではいいけれども、多くの點に於ては違ふから、その違ふところを十分に氣
   をつけてゐないといふちふと、誤りが出て、東洋的なるもの、我々が祖先から傳
   へて来たところの物の見方と云ふものを誤る。この見方がないといふちふと、
   今後の世界といふものには本當の世界が成り上がらんと、かう云ふんです。
   それで、この東洋型の考へ方 を私はやかましく云ひたいと思ふんです。

鈴木大拙.(1970).『鈴木大拙全集第27巻』.「禅に關して」.pp.163-4.岩波書店.



ここまで読んで来ると、いかに仏教や禅の世界が高遠なものであるかを実感するのです。しかしながら、もちろん仏教の真諦など分かるはずもありませんが、その中にありながらも 『 自然(しぜん)=自然(じねん)』の句を見た時、何か心中に訴えるものがあり、妙に腑に落ちるものがあるのです。

もともと「自然(じねん)」の言葉さえ知らなかった私は、現代において、
『 自然(しぜん)=自然(じねん)』という公式が生まれた事はありがたい事だとさえ思っているのです。

自然とは何かと考える者にとって、渾沌として、茫洋とした霧の中に彷徨うような思いをしている中、『 自然(しぜん)=自然(じねん)』の公式を知った時、何か新しい扉が開かれたような思いがするのは、私だけでしょうか?
何か自然の核心を垣間見せてくれる様な気がするのです。
それは自立し、自己完了している、自然の世界です。それはまさしく「おのずから然り」 の世界ではないでしょうか。春になれば花開き、秋となれば葉落ちる世界です。

鈴木大拙氏はまた別のところで、
「自然とは何かと問われれば、勢いよく坂を転がっている石が、次第にゆっくりとなっていき、最後にはストンと納まる所に納まり、不動のものとなる。そういうものだ と言いたい。」と言っていますが、「 おのずから然り 」の世界を言い尽くしている様な気がします。この言葉もこの石と同様に、私の中で納まる所にストンと納まる様な気がするのです。
以前に書いた、日本人の物事への良否に対する判断として、「 自然だー」、「 不自然だー 」という表現も、結局のところ日本人の心の底にあるものにストンと納まるかどうか、腑に落ちるかどうか、という価値基準ではないでしょうか?
「 決める 」のでは無く、自然と、おのずと「 決まる 」という所、自分がー と言うよりも、自分の中の 自然法爾 にー 、落ち着く、納まる所ではないでしょうか。

この辺りの消息に『 自然(しぜん)=自然(じねん)』の場が垣間見えると言ったら禅者に怒られるでしょうか


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