『青が消える』村上春樹をどう読むか?-①-
題材:『青が消える』村上春樹
科目:高校1年言語文化
教科書:明治書院
村上春樹は現代日本最高の作家といえる存在です。好き嫌いはあるかもしれませんが、世界的な知名度において村上春樹を超える日本人作家はいないんじゃないかなと思います。
その村上文学を教科書で読むとなると、これが難しい。どう読んでいいのかわからない。先生でさえどう教えたらいいのかわからないと困ってしまうかもしれません。
いわゆる主題を中心とした読みによって、何を伝えようとする作品なのかを考えていこうとしても、なかなか腑に落ちるものが得られない。というか、むしろメッセージ性を考えるとあまりにもあっさりと決まってしまう。日常的で、薄っぺらで、使い古されたような言葉にまとまってしまう。これで良いのかと不安になる。
村上文学を理解することの難しさがまずここにあります。初期作品は特に、どうしても軽い作品のように感じられてしまう。ただならぬ魅力に引き込まれたとしても、その面白さを語ろうとするとうまく言葉にすることができない。
『青が消える』もそういう作品ではないでしょうか。あらすじを振り返ってみます。
20世紀最後の夜、「僕」が一人でアイロンをかけていると、目の前で青が消えてしまいました。青とは何かの比喩ではなく、色そのもののことです。「僕」はもともと青という色が好きだったのですが、世界から青が消えてしまい、青かったところは白になってしまいました。
僕は別れたガールフレンドをはじめ、駅員や総理大臣に、青が消えたことについて相談します。しかし、誰も真剣に話を聞いてはくれません。街の人々も青が消えたことには何の関心も払わずに、新しいミレニアムの到来を祝うパーティーを楽しんでいます。「僕」は孤独を感じながら街をさ迷い続けますが、何かが解決することはありません。結局、日付が変わり、新世紀が到来しました。「僕」が好きだった青という色は失われたまま。
こんなお話です。
青が消えるという非日常的な出来事を描いているところから、ファンタジー性や、SFっぽさを感じた読者も多いのではないでしょうか。実際に、私の教えた生徒たちの多くは本作を「非現実的」な作品ととらえていました。
「非現実的」という表現でも十分なのですが、ここでは重要語句の「不条理」という言葉を導入しておきましょう。
「不条理」とは、「物事の筋道が立たないこと・常識外れなこと」を意味します。特に文学批評の文脈では、「何の理由もないのにひどい目にあること」を「不条理な話」といったりします。一般常識として覚えておきましょう。
さて、不条理と感じる設定は小説においてとても大事です。なぜなら、文学史的な名作の中には不条理な作品が多いからです。少し例を挙げてみましょう。
・朝起きたら人間が虫に変わっていた(『変身』)
・何もしていないのに逮捕され、裁判で処刑を宣告された(『審判』)
・目の前にあるはずの城に、歩いても歩いても到達できない(『城』)
上記はいずれもフランツ・カフカという作家の作品です。カフカは不条理な小説をたくさんのこしたチェコ出身の作家です。だからといって意味不明な物語ばかりだとは思わないでください。読者にただならぬ不安を与えるような、だからこそ面白い小説ばかりなのです。
カフカの影響を強く受け、リスペクトしている作家は現在も多くいます。彼への敬意をこめて、不条理な設定を「カフカ的状況」ということもあります。(ちなみに、村上春樹さんは『海辺のカフカ』という作品も書いています。関係あるかはわかりませんが。)
『青が消える』に戻りましょう。この作品もたしかに不条理で、「カフカ的状況」といえるかもしれません。
でも、主張は割と簡単に読み取れるのではないでしょうか。
〝時代が進んでいく中で、大事なものが失われていくこともある。そういったものに目を向けていない人が多すぎる〟
こんな感じのメッセージがあると評価することは容易にできるでしょう。そして、こんな問につなげていくこともできるのです。
〝あなたにとって、大切なものが失われた経験はありませんか?〟
これは安易な読みだし、平凡な授業展開だと思いますが、決して無意味なわけではないと思うので、少しこの路線で話を進めてみます。
改めて考えてみると、私がかつて好きだったもののいくつかは気が付かないうちに失われてしまっています。例をあげてみましょう。
・駅前の小さな本屋(本屋はどんどんなくなってますね)
・手紙や年賀状のやり取り(今は全部Lineで済ます)
・マニュアル運転の自動車(今もあるけど少ない)
これらが消えていくことに、多くの人は無関心だし、その中で私にできることは何一つありません。(まあ、手紙や年賀状を書かないのは私の怠慢ですが……。)
本文でも大統領の声で語るコンピューター・システムがこう言っていましたね。
〝かたちあるものはかならずなくなるのです。……それが歴史なのです〟
〝好き嫌いに関係なく歴史は進むのです〟
世の中というのはこういうものなのです。
さて、『青が消える』の授業の最後に、クラス皆で「失われてしまった好きな物」の発表でもしたらどうでしょうか?
そして、先生は最後にこう締めくくるのです。「みんなが好きなものもいつか失われてしまうんだ。だから、大切にしよう」
非情にまとまりがいいですね。誰の胸にも明確に、すとんと落ち着くメッセージではないでしょうか。
………
………
うーん。
でも、これじゃあちょっと浅くないですか?
村上春樹の作品を読んだ結論がこれでいいんでしょうか?
はっきり言って、こんなことを言われなくてもわかってますよね。
最初に述べたように、村上春樹作品をメッセージの観点から読むことに私は疑問を抱いています。
では、どのように読んでいけばいいのか?
ここからは、私の考え方を紹介したいと思います。
キーワードは「ポスト・モダン」です。「ポスト」は「~の後」を意味する言葉で、「モダン」は「近代」を意味しています。つまり、「近代以後」が「ポスト・モダン」という用語の意味になります。
「ポスト・モダン」は様々な文脈で使われるのですが、ここではまず文学の観点から考えてみましょう。
さて、文学における「モダン(近代)」とはどのようなものでしょうか?
日本の近代文学は明治時代から始まります。この時代に活躍した作家といえば、まずは夏目漱石と森鴎外が思い浮かびますね。マニアックな人は島崎藤村や田山花袋を知っているかもしれません。それ以上に詳しい人は素晴らしいです。ぜひ、大学では文学部に進んでください。
冗談はさておき、漱石や鴎外といった近代の作家たちが描いていたものは何だったのでしょう。それを一言で表すなんて暴挙は批判も多いかもしれませんが、あえて簡略化して言うならば「人情」です。
というのも、近代文学の最初期に小説を発表した作家に、坪内逍遥という人がいるのですが、彼がこんなことを言っているんですね。
〝小説の主脳は人情なり世態風俗これに次ぐ〟
わかりやすく言い換えると、「小説のメインは人の心であって、生活や文化などがその次に大事だよ」となります。
とにかく、小説というのは人の心を描くものなのですね。考えてみるまでもなく、人の心というのは複雑です。
・大好きな親友を裏切ってしまったり(漱石『こころ』)
・出世のために恋人を捨てたり(鷗外『舞姫』)
・差別されるとわかっていても自分の出自を明かしたり(藤村『破戒』)
上記のように、読者が思わず「やめろ!」と叫んでしまいたくなるような行動をついとってしまうのが小説の主人公たちです。そして、そんな人々の行動を通して読者は人間の複雑さというものをより深く理解していくのです。
近代文学は、この「人情を描く」ということに力を注いできました。それは何も近代に限られたことではないのですが……。今でも、刻一刻と時代が変化する中で、人が何を感じ、何を求めて生きているのか、そんな心を描いた小説は多いですね。これらは、ある意味では近代文学の伝統を受け継いでいるのです。
ここからが「ポスト・モダン」文学の話です。
「ポスト・モダン」の文学は、近代文学が行ったような、人の心を掘り下げていく方向から逸脱していきます。人が何に苦しみ、何に喜ぶのかということを描かないわけではないのですが、メインにはしない。
では、何を中心にしているのかというと、「表現の仕方」そのものだと私は考えています。
例えば、村上春樹さんのデビュー作「風の歌を聴け」にはこんなページがあります。
どうですか?
小説の1ページにTシャツのイラストが描かれているのです。こんなこと、漱石や鷗外はぜったいにやらないですよね。読めばわかるのですが、このTシャツには特に意味もないし、小説全体の展開に影響はしないし、必要性という点では皆無なのです。
他にも、私の好きな作家にル・クレジオというフランス人作家がいるのですが、彼の『向う側への旅』という作品にはこんなページがあります。
どこをどう読んだらいいかわからないですね。
「意味不明」といって本を投げ捨てたくなる人もいるでしょう。しかし、この意味不明さ=メッセージにこだわらないところにこそ、私はポスト・モダンらしさがあると考えられます。
これは後でまた触れることになりますが、近代的価値観が過去のものとなった世界では、「人はいかに生きるべきか」とか、「幸福とはなにか」といったような明確なテーマが力を持ちにくいのです。(そんなの人それぞれじゃん、と言われたら終わりです。)
だから、そういう時代状況をとらえた作家たちは昔ながらのテーマを深堀りするよりも、違った表現の方法を開拓していったのですね。
それは、文学の世界に限ったことではありません。
例えば、美術の世界ではマルセル・デュシャンという人が『泉(Fontaine)』という作品を発表しました。これは、写真のような便器に簡単なサインをしただけのものです。美術といえば美しい絵画や壮麗な建築を思い浮かべる人が見たら、ひっくり返ってしまいますね。「馬鹿にしているのか?」と思わない人はいないでしょう。
ですが、この作品は少なくとも近代までの芸術観に飽き飽きした人々に衝撃を与えたことは事実です。そしてまた、「芸術とは何か?」という問題を巻き起こしたのですね。
また、音楽ではジョン・ケージという人が「4分33秒」という曲を発表しました。これは、なんと4分33秒間何もしないという曲なのです。指揮者は指揮をしませんし、楽器が音を立てることはありません。その間、コンサート会場の観客たちは沈黙の中で、自分自身の心臓の音や、隣の席の人の呼吸、衣擦れの音や咳ばらいを聴くのです。
この音楽は何を表しているのかを問うてみても、音そのものがないのだから、近代的な価値観に染まった人からすれば肩透かしをくらったような印象を受けるでしょうね。(まあ、かえって何かを伝えようとする意図が明確になっているような気はしなくもないのですが。)
他にも、映画やダンス、建築といった分野でも「ポスト・モダン」と呼べるような作品は次々と発表されていきました。
では、それらすべてを結びつける「ポスト・モダン」の定義があるかと言えば、なかなか難しいのです。なぜなら、「近代にはなさそうな感じ」が「ポスト・モダン」の要件だからです。
だから、なんとなく新しい感じのするものをなんでも「ポスト・モダン」と呼んで評価してしまうような動きもあったのです。これは、私自身もそうなので、戒めなければならないなあと思っています。
さて、ここで改めて『青が消える』という作品の「ポスト・モダン」な点を考えてみましょう。近代文学にはなさそうな特徴がどこにあるか思いつきませんか?
私は以下のゴシック体(太字)の一文が重要であると考えています。
このように「青が消えてしまったのだ。」という一文はゴシック体で表記されています。このことの意味を考えてみましょう。
一般的にいえば、ゴシック体が表すのは強調です。だから、「僕」という主人公が、青が消えてしまったことから受ける衝撃の強さを表していると答えることもできるでしょう。
もしも、客観的な答えが求められるテストで、「青が消えてしまったのだ」がゴシック体であることの意味を問われたら、答えは「強調」になるでしょう。
しかし、作家の立場になって考えてみましょう。
物語の中で、ある部分が大事であることを強調するための手段として書体の変更を行うでしょうか? 強調すべき登場人物の心理というものは、物語の展開の中で自然に読者に伝わるように書くものではないのでしょうか?
私が思うに、この小説で書体の変更が行われているのは、「僕」の心情を強調したいからではありません。より、ポスト・モダン的な文脈の中で考えるべきことだと思います。
改めて振り返ってみますが、近代文学で書体の変更が行われている作品はどれくらいあるでしょうか?
私は1作品も知りません。
生徒に尋ねると、ハリー・ポッターシリーズの呪文の書体が違うという答えが返ってきました。これは面白いことですが、近代文学ではないので置いておきます。
文学と書体について考えてみましょう。
昔は1冊1冊の本を人が手書きで写して作っていました。だから、ある本がとても面白くて、評判がよくても、日本中に広まるのは難しかったし、できたとしても、とても長い時間がかかったのです。
しかも、人の手仕事なので間違いも起こる。例えば、誰もが知ってる『源氏物語』なんてめちゃくちゃ分厚いですよね。これを手書きで写すとなれば、1文字も間違えずに書けるなんてことはないでしょう。
だからこそ、1冊1冊が違うという面白味もあったのです。間違いの有無だけでなく、誰が写したかで雰囲気も違う。雑な字の人もいれば、きれいな字の人もいる。大きな字もあれば、小さな字もある。
近代に入ると、これら手書きの特徴は印刷技術によって失われていきました。機械によって、同じ書体の本を効率的に、大量に印刷することができるようになったからです。
これは非常に良いことなのですが、手書きの良さは失われていきました。それはまた、文字が書かれたものであることさえも忘れさせてしまう大きな変化だったのではないかと思います。
21世紀現在、人々はどんどん文字を書く機会が減っていっています。同様に、手書きの文字を読む機会も減っています。私たちは本でもネット記事でも、一定の書体で読んでいるでしょう。
そして、そういった状況の中で、私たちの「読む」という行為は常に文字の向こう側に向いていくのです。それは、例えば作品のテーマだったり、筆者の主張だったり、人物の気持ちだったりします。
でも、ちょっと待ってください。それらの「読み」はあくまで文字を通してなされる行為ですよね。文章とは、まずは何よりも「書かれたもの」であることが大事なのです。書体の変更は、そのことを思い出させてくれるのです。(教科書も印刷されている以上、これはあくまでささやかな革命にすぎないのですが。)
〈まとめ〉
私はポスト・モダンの観点から『青が消える』を読みました。
そこで大事なのは、近代ではみられなかった書体の変更がなされていることです。これは、印刷技術の発展により、あらゆる本が同一の書体で読めるようになったことで、書物が書かれたものであることを忘れてしまった現代の読者に、もう一度、文字が書かれたものであることを認識させる効果をもっていると考えられます。
小説の世界ではどんな人間でも存在を許されています。だったら、どんな文字で書かれていてもいいんじゃないでしょうか?
近代の束縛から逃れようとする、村上春樹さんの意志を私は感じたのでした。
次回は、再び「ポスト・モダン」をキーワードに、違った観点から『青が消える』を読んでみようと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?