『帰ってきたウルトラマン』の過激なるセリフ学~市川森一氏に寄せて
もう40年近く前になりますが・・・生前の脚本家・市川森一さんにお会いする機会がありました。
その時私は挨拶代わりに「先生の『ウルトラセブン』の大ファンだったんです」と申し上げたのですが、市川森一さんは笑顔でこうお答えになったのです。
「でもね、ウルトラと言ったら、やっぱり『帰ってきたウルトラマン』ですよ。僕が本当に燃えた作品はね」
その言葉に、私は内心「我が意を得たり」とほくそ笑みました。
僕が『セブン』の名を出したのは、『セブン』こそが最高傑作というパブリックイメージに配慮したもので、脚本家・市川森一さんの作品としては『帰ってきた~』の方が上ではないかと、内心思っていたのです。
ご本人の口からそれを聞けて、嬉しかったですね。
第一期のウルトラ(『Q』『マン』『セブン』)と、『帰ってきたウルトラマン』では脚本・・・特に「セリフの質と量」が大きく変わっているのではないか。いつの頃からか、僕はそれを意識するようになっていました。
一期のセリフは端正で、簡潔で、抑制が効いていて・・・内容的にもSF的世界観からはみ出さないものがチョイスされていたと思うんです。
それに対して『帰ってきたウルトラマン』のセリフは、生々しく、荒々しくて饒舌で。現実感が剥き出しの、テンションが高い、過激なものが多かったと思うのです。
その違いは、書き手にとっては「やりがい」につながっていたと思うのですね・・・
では具体的に、どのあたりのセリフが一期と『帰ってきた~』では違っていたのでしょうか。具体例をあげていきましょう。
〇第5話「二大怪獣 東京襲撃」第6話「決戦!怪獣対MAT」(脚本・上原正三)
怪獣グドンの出現に出撃した郷隊員と岸田隊員。しかし郷は、現場で少女の姿を目撃し、攻撃を中止します。これに岸田が怒り、基地で言い争いになります。
岸田「郷は俺個人に対する反撥からMATとしての任務を怠ったんだ。隊長、
前線において今日のようなことが起こるようだと、今後任務を速やか
に遂行することはできません。郷に対する断固たる措置をお願いしま
す」
南「おい岸田、何もそこまで」
岸田「いや、この際きちんとしておいた方がいいんだ」
郷「俺は懲罰されてもかまいません。しかしパトロール中の岸田隊員の判断
は甘かったと思うし、今でも子供を見たという確信があります」
隊員同士の口論という状況自体が、一期ではないものでしたが、使われている「前線」「懲罰」というワードにも、生々しさがありますよね。
一期ではぼかされていた、防衛チームの軍事組織としての側面が、はっきりと強調されているのです。
(フィクションの子供番組のセリフという感じではなかったです)
〇第6話「決戦!怪獣対MAT」(脚本・上原正三) 11話「毒ガス怪獣出現」(脚本・金城哲夫)
さらにその後編では、グドンとツインテール、二大怪獣撃退のために、東京で破壊兵器スパイナーを使用すると、長官が宣言するのですが。
その意図を、このように説明するのです。
長官「日本の首都を怪獣に蹂躙されていては世界の笑いものだ。
東京決戦については一切の指揮はこのワシがとる」
これは政治的皮肉として、直球すぎるセリフですよね。
「世界の笑いもの」にはなりたくないから、東京を犠牲にしても、日本の威信を守る。日本の権力者にありそうなメンタリティーを、直球で描いているのです。
しかもこの作戦を、太平洋戦争を連想させる「東京決戦」という名で呼称しているのだから、もう確信犯という感じです。
一期でも「戦争」や「侵略」をテーマにした作品はありましたが、その場合の主語は、あくまでも「人類」でした(人類は海底人ノンマルトを侵略した、というように)。
しかし『帰ってきた~』では、「日本」「日本人」を主語に、戦争や差別を批判することがあり、そこのリミッターが外されているのです。
旧日本軍の毒ガス開発を題材にした「毒ガス怪獣出現」(脚本は一期のメインライターだった金城哲夫)などはその最たる例ですが、さすがに生臭すぎる印象もありましたね。
〇16話「大怪鳥テロチルスの謎」(脚本・上原正三)
政治的な生臭さとはまた別の次元なのですが、『帰ってきた~』では、恋愛描写においても、生々しい表現が試みられています。
郷は、ヨット爆破事件に巻き込まれた由紀子という女性と関りを持つが(容疑者は由紀子の幼馴染の三郎)、その過程で、彼女から好意を寄せられます。入院していた病室で、郷に告げる由紀子。
由紀子「行かないで。この間郷さんが海に来た時に、私はあなたを選びました。いつまでも側にいて、お願い」
これを病室の前で由紀子の婚約者・横川と、郷の恋人であるアキが聞いてしまう。その時横川はアキに、こう毒づくのです。
横川「朝から晩までああやっていちゃついてるんだ。恋人ならしっかり捕まえてくれないと困る」
ウルトラで、四角関係(三郎を入れると五角関係)的な恋愛模様が描かれることも異例ですが、「ああやっていちゃついている」というセリフの、身も蓋もない直截性も、また異例ではないですかね。
この後も、アキが由紀子に嫉妬して、郷が平手打ちしたり、由紀子、横川、そして三郎をめぐる愛憎劇が発展していったりで、怪獣テロチルスより、
恋愛ドラマの方が優先的に描かれてしまい、特撮モノのジャンル感としては、妙な印象の作品になってしまいました(私としては好きな作品ですけども)。
何故、このようなセリフの違いが、一期と『帰ってきた~』の間で生じたのでしょうか。
第一期が「SF的テーマ性、寓話性に基づく」作品作りを主眼としていたとすれば、第二期の『帰ってきた~』は、それよりもまず「生々しい人間ドラマであること」を目指していた、のではないでしょうかね。
(それは一期と二期の間に汗みどろのヒーローを描く「スポ根ブーム」が
あったことと関係があるでしょう)
しかしこの「人間ドラマ」路線は、視聴率的に伸び悩み、元々のテイストへの回帰が志向され始めた頃、市川森一氏が登場するのですが。
ここで市川氏が試みたアプローチが、大変に興味深かったのです。
市川氏は、第一期的な「SF的なテーマ性」を追求しつつも、そこに第二期特有の「生々しい人間ドラマのタッチを」注ぎこんだのです。
つまり第一期と第二期を、融合させたわけです。
その最たる例が、この作品でした。
〇第31話「悪魔と天使の間に・・・」(脚本・市川森一)
市川氏はこの作品の執筆意図について、このように語っています。
「僕はクリスチャンですから、SFは聖書から入ってくるんです」
「悪魔が天使の顔をして人間を騙していくというような発想に、スーッと
入っていくようなところがありますね」
「一種の試練ですね。同じ試練でも、仏教的な(修行的な)試練とは違いま
す。キリスト教というのは、もう少し人間と対決します」
(市川森一・「帰ってきたウルトラマン大全」所収インタビューより)
つまりこれは、「人間は悪魔的なものとどう対峙していくか」という、第一期的なテーマ性の下に作られた作品なんですね。
ただし、個々の描写は第二期特有の「苛烈で、過激で、饒舌な」トーンで描かれていて、「エグい」のであります。
伊吹隊長の娘・美奈子が基地に聾唖の少年・輝男を連れてきます。
教会で知り合った輝男のために、美奈子は手話まで覚えて尽くしている。
だが輝男の正体はゼラン星人で、テレパシーで自らその正体を明かした上で、こう語りかけてくるのです。
星人「私はお前に会うためにこの娘を利用してようやくその目的をはたし
た。私の使命はお前を殺すこと(中略)。
私はプルーマという怪獣を連れてきている。しかし、これは単なる囮
だ。お前はウルトラマンになり、この怪獣に勝つだろう。そしてウル
トラマン、その時がおまえの最後だ。わかるか?プルーマに勝った
時、お前は死ぬのだ」
私はこのセリフを初放送時に聞いた時、何とも言えない戦慄を覚えました。
自分の正体も、作戦内容もあからさまに語り、その上で「勝った時にはお前は死ぬ」と謎かけしてくる。その行為にまさしく悪魔的な不気味さがあったからです。
しかも「倒される」でも「負ける」でもなく、「死ぬ」という表現が、とてもショッキングなもので。
輝男(ゼラン星人)は、自分が宇宙人だと訴えたところで、誰も信じないこと言い、実際その通りになります。
それがわかった上で、郷を苦しめるために、わざと正体を明かしたのでしょう。まさしく郷は「試練」を与えられたのです。
郷「お嬢さんが連れてこられた少年は、人間の姿を借りた宇宙人です。
奴の目的はウルトラマンを抹殺することです」
伊吹「彼が自分の口で言ったのか?あの少年は口が利けないんだぞ」
郷「テレパシーで話したんです」
伊吹「ウルトラマンのことをどうして君だけに?」
郷「・・・」
伊吹「テレパシーのことなら私も知っている。宇宙人が人間そっくりの姿で
紛れ込むことも。しかしあの少年は違う。はっきり言って君の妄想
だ」
郷「初めから信じてもらえないと思っていました。しかしこれだけは聞き
入れてください。お嬢さんをあの少年に近づけることは危険です」
伊吹「美奈子は心の優しい娘なんだ。親として娘の善意を踏みにじることは
できない」
郷「しかし、お嬢さんが危険な現実にさらされているとしたら」
伊吹「現実?何事にも汚されない美しい友情。それが子供たちの現実だよ」
ウルトラマンである正体を明かせない以上、郷の訴えにはそもそも説得力がない。
しかも輝男は子どもであり、聾唖というハンディを持っており、人間は(特に大人は)、そうした弱者に対しては疑いの心を持てない。
さらに伊吹には、親として、娘の輝男に対する善意を守りたい気持ちも
ある(後に伊吹の「私はあの子が、何かの偏見で、人を疑ったり、騙したり、差別したりするような娘に育てたくないんだよ」というセリフがあります)。
人間の良心を、全て利用してくるゼラン星人に対する、郷の不利が、まるで審問劇のように明かされていき、ドラマとして圧巻でしたね。
再三挑発してくる輝男(ゼラン星人)に怒り、郷が襲いかかるのですが、未遂に終わり。伊吹に詰問されるのですが。ここで。
伊吹「子供の首なんか絞めてどうするつもりか」
郷「子供ではありません。あいつは宇宙人です」
伊吹「宇宙人であることを強引に白状させようとしたのか」
郷「白状させるつもりなんかありません。殺すつもりでした」
ウルトラマンである郷が「殺すつもりでした」と宣言する、ガチで衝撃的な場面が展開されるのです。
その後、郷はウルトラマンに変身。プルーマをウルトラブレスレットで倒すのですが、そのブレスレットをゼラン星人にコントロールされてしまいます。それこそがゼラン星人の企みで、ウルトラマンの武器でウルトラマンを倒すという、悪魔の策略だったわけです。
だが伊吹がついに輝男の正体に気づき、輝男の喉元を撃って、射殺するのです(聾唖の少年の、喉を撃つという、これも容赦のない描写でした)
事件が解決し、教会に美奈子を迎えに行く、伊吹と郷の会話もまた、忘れ難ものでした。
郷「僕ならあの少年は遠い外国に行ったと言いますね。お嬢さんの心を傷
つけないためにも」
伊吹「君がそう言ってくれるのはありがたいが、やはり事実を話すつもり
だ。人間の子は人間の子さ。天使を夢見させてはいかんよ」
これまで「何事にも汚されない子供たちの友情」を信じ、娘を天使のように育てようとしていた伊吹が、「人間の子は人間だ」という現実を受け入れる。
「人間の子は、悪魔と天使のあいだにある存在なのだ」と悟るのです。
これを、子供である視聴者に見せていた、聞かせていたという事実が、改めて驚愕しますよね。
天使を夢見てはいけない。しかし悪魔の誘惑に落ちてはいけない。
人間は、天使でも悪魔でもない、「人間」であらねばならない。
手加減一切なし。市川氏は全力の球を、我々に投げてくれたのです。
弱者が弱者であることを武器にして、人を騙し、動かしていく。
これは現実社会でも多々あることで、そういう意味でもこの作品は、予言的な作品であったような気がします。
脚本家・市川氏としては、ここが最高峰だというのは、大変納得できますね。
○「盗まれたウルトラアイ」(脚本・市川森一)
・・・とさんざん、『帰ってきたウルトラマン』のセリフの特異性、魅力を語ってきたわけですが。
その一方でやはり、SF作品としてのトーンが貫かれている点で、『ウルトラセブン』のセリフもまた魅力的であることを、最後に補足しておきましょう。
同じ市川森一氏による「盗まれたウルトラアイ」の回ですが。モロボシダンが、マゼラン星人の地球破壊工作員マヤに、テレパシーで語りかける場面があります。
ダン「聞こえるか? 僕がわかるか」
マヤ「誰? 宇宙人ならテレパシーは使えないはずよ。
わかったわ・・・あなたはセブンね」
ダン「ウルトラアイを何故盗った」
マヤ「それが私の任務だから」
ダン「地球を侵略するつもりか?」
マヤ「こんな狂った星を?
見てごらんなさい、こんな星。
侵略する価値があると思って?」
「悪魔と天使のあいだに・・・」とは設定が違うとはいえ、こちらの方は
完全にセリフが切り詰められていますね。
しかしその分、クールでスタイリッシュで、泥臭さがありません。
気になって、台本のセリフの行数をカウントしてみたのですが。
「盗まれたウルトラアイ」 セリフ108行
「悪魔と天使のあいだに・・・」 セリフ258行
何と、2つの作品にはこれだけのセリフ量の差があったのです。
これはもう明確なスタイルの差だったと言えるでしょう。
SFフィクションとしての構築度が高い『ウルトラセブン』。
泥臭く、汗臭く、現実世界にまみれようとした『帰ってきたウルトラマン』。
クールな『セブン』と、熱い『帰りマン』。
私はどちらも大好きであります。