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力道山とプロレスアングルの起源~プロレスブック考察④
日本における本格的なプロレス興行の起源というと、誰でも1954年(昭和29年)2月、蔵前の力道山・木村政彦対シャープ兄弟をあげるでしょうし、それは全く正解なのですが・・・
ただ1954年から1957年にかけてのプロレス興行はまだ散発的で、年に2回、アメリカからレスラーを招いた長期シリーズがある程度で、テレビ中継も特番的なものでした。
今のように、プロレスの試合が毎月行われ、東京地区で恒常的に興行が行われるようになるのは、1958年9月に、日本テレビが金曜夜8時に隔週レギュラー番組としてのプロレス中継を始めてからなのです(ここから、日本プロレス界は、団体の浮き沈みはあれども、コロナ期の例外を除き、2024年の現在まで、途切れることなくプロレス興行を続けているのです)
いわばこの第二の「日本プロレス興行の原点」が意外に注目されていないのが気になったし、レギュラー化したプロレスが、その初期にどんなマッチメークを展開したのかも興味深いので、この時期の東京地区の試合記録を調べてみることにしました。
調べてみるとそこには、レギュラー・プロレス黎明期の生みの苦しみと、そこから日本初の「アングル」が生み出されていく、劇的な展開が見えてくるのでした・・・
〇1958年9月
9月5日 蔵前 力道山・バレント1-1ジョナサン・リー
9月6日 蔵前 力道山2-0リー
ということで、ここからテレビ中継によるレギュラー化プロレスが、始まります。
力道山はそれに合わせる形で、ロスでルー・テーズを破ってインターナショナル選手権を持ち帰りますが、いきなり防衛戦をするわけではなく、外国人のジョニー・バレントとのタッグ、203センチの長身スカイ・ハイ・リー
との対戦で、様子見をしていますね。
この頃は、初期のプロレス人気が落ちたと言われていた時期で、力道山としてはこのレギュラー放送は、絶対に失敗できないモノだったでしょう。
〇1958年10月
10月2日 蔵前 <インター>力道山1-0ジョナサン
10月31日 都体 <インター>力道山2-0ジョナサン
蔵前、東京体育館で、強豪ドン・レオ・ジョナサンと力道山のインター選手権2連戦が開催。この試合は日テレのアーカイブ映像で見ましたが、大型の実力者で、ヒール型でもないジョナサンを相手に、力道山は観客をヒートさせる試合作りができず、苦労している感じでしたね。
初戦は力道山が1本先取しての時間切れ、再戦はジョナサンの試合放棄と消化不良気味になり、ブーム再燃にはつながりませんでした。この辺がプロレスの難しさだと、痛感させられます。
〇1958年11月
11月21日 後楽園 東富士・豊登1-1ミルズ・コワルスキー
11月28日 後楽園 ミルズ(体固め)東富士
力道山がブラジル遠征に。留守部隊が新外国人勢を迎え撃ちますが、元横綱の東富士が惨敗の憂き目となります。
このかませ犬的扱いが決め手になったか、東富士はこの試合を最後に引退してしまいます(プロレス界最初の「大物レスラー離脱劇」かもしれません)。
後楽園とは「後楽園ジム」のことで、場所は少し違っていましたが、現在の
後楽園ホールの前身だそうです。
〇1958年12月
12月19日 後楽園 力道山・豊登2-0ミルズ・コワルスキー
12月26日 後楽園 力道山・豊登2-0ミルズ・コワルスキー
ブラジルから帰国した力道山が登場。場所が違うとはいえ、力道山が後楽園ホールの前身で試合をしていたというのは、何となく胸熱です(このへんの試合は「後楽園シリーズ」と銘打たれていました)。
しかしいきなりストレート勝ちとは、相手のしょぼさを見極めたということでしょうが、盛り上がりに欠けますね。
〇1959年1月
1月9日 後楽園 <アジア>力道山2-0ミルズ
1月23日 後楽園 力道山・豊登2-0ミルズ・シモノビッチ
ミルズ相手にタイトルマッチですが、インターではなく、アジア選手権となったのは、新王座の権威を保つためでしょうか。
そういう相手なので、試合も力道山の完勝。
さすがにこれではと思ったのか、後半は、来日経験がある実力者のラッキー・シモノビッチを追加参戦させています。
〇1959年2月
2月6日 後楽園 力道山2-1シモノビッチ
力道山とシモノビッチのシングル。シモノビッチはドロップキックの名手と
言われたテクニシャンですから、それなりに好試合になったと思いますが、
ドラマ性には欠けたマッチメイクで、苦心ぶりが伝わってきます。
〇1959年3月
3月6日 後楽園 吉村・長沢・トルコ1-1芳の里・登喜・金子
3月21日 プロレスC
このままではジリ貧だと焦った力道山は、世界の強豪を集めた「ワールド大リーグ戦」の開催を構想。その来日選手の交渉のために、渡米します。
・・・ということで、このワールド・リーグ戦が、日本プロレス起死回生の大ヒットになるわけですが、実はその前景気を煽るため、画期的な仕掛けがあったことを、今回発見しました。
〇1959年4月
4月3日 プロレスC アトミック(体固め)芳の里
4月17日 後楽園 アトミック(体固め)吉村
テレビで『月光仮面』がブームを巻き起こしていた時、突如として謎の赤覆面ミスター・アトミックが、日本マットに飛来。
アトミックはその覆面に凶器をしのばせて、留守部隊の日本人レスラーを次々と血の海に沈め、視聴者をヒートさせます。
「力道山よ、早く帰ってこい!」プロレスファンの願いが頂点に達した時、
アトミックのワールド・リーグ戦への参加が決定するのでした・・・
書いていても血が踊る。今風に言うなら、まさに完璧な「アングル」です
(この瞬間、日本のプロレスは初めて「連続ドラマ性」を獲得したと言えるでしょう)。
これが一体誰のアイディアによるものかともかく、それまでのグダついた展開からは考えられない、神展開なのは確かです。
〇1959年5月
5月1日 後楽園 遠藤2-1アトミック
5月21日 都体 <Wリーグ>力道山(時間切れ)オルテガ
5月22日 都体 力道山・豊登2-1オルテガ・コング
ということで、ジェス・オルテガ、キング・コングという、かつて力道山を苦しめた二大強豪に、大旋風を巻き起こすアトミックを加え、エンリキ・トーレス、ロード・ブレアースら技巧派の強豪も参加して開催された「ワールド大リーグ戦」は、空前の大ヒット興行となり、プロレスは新たなる黄金時代を迎えたのでした。
リーグ戦の星取を見ると、かつて力道山とアジア王座を争ったコングが、アトミックに敗れていて、「主役はアトミック」感は、如実に出ているのでした。
〇1959年6月
6月15日 都体 <Wリーグ準決勝>アトミック(反則)力道山
<Wリーグ準決勝>オルテガ(時間切れ)トーレス
<Wリーグ決勝>力道山(体固め)オルテガ
ワールド・リーグの準決勝に残ったのは力道山、アトミック、オルテガ、
トーレス。ここで力道山は、アトミックの凶器攻撃に怒り、その覆面をはがして、空手チョップを乱打して、反則負けとなってしまいます。
優勝の夢ついえたと思いきや、アトミックが負傷棄権し、力道山が繰り上がりで決勝進出するという、手の込んだドラマチックな形で、優勝を果たします。
しかもこの展開の秀逸なのは、力道山とアトミックはまだ未決着であり、「覆面はがし」という新たな因縁も生じたことです。
そうしてアトミックは、この後のワールド・リーグ選抜戦にも継続参戦し、連続ドラマはさらに続いていくのでした。
〇1959年8月
8月7日 田園 <インター>力道山2-0アトミック
7月は地方巡業で力道山とアトミックの激戦が展開され、8月、東京に戻って、田園コロシアムで、ついにインター王座を賭けての決着戦。ここで力道山はアトミックにストレート勝ちして、そのドラマを締めくくるのでした。
アトミックが日本でブームを巻き起こしたのは知っていましたが、その背景に、こうした周到な仕掛けがあったことは知りませんでした。
(ちなみにアトミックの最後の来日は1970年8月で、この時同時に初来日し、大旋風を巻き起こしたのがアブドーラ・ザ・ブッチャー。奇しくも新旧アングル・レスラーの世代交代となったのでした)
ということで、この年の以降の流れをザザッと見ていきます。
〇1959年9月
9月4日 プロレスC パドーシス・ジャクソン2-1遠藤・吉村
9月18日 プロレスC 東郷・パドーシス2-1遠藤・芳の里
力道山の留守に、稀代の悪党、グレート東郷が来日。
〇1959年10月
10月6日 台東 力道山・遠藤1-1東郷・パドーシス
10月30日 プロレスC 力道山(時間切れ)東郷
力道山と東郷の一騎打ちが実現します。
〇1959年11月
11月13日 プロレスC ライト(体固め)遠藤
11月21日 台東 力道山・遠藤0-0ライト・東郷
新たな強豪、ジム・ライトが来日し、東郷と結託。
ライトは翌年1月に、力道山のインター王座への挑戦が決定する。
という形で、さすがにアトミックほどの盛り上がりはないにせよ、プロレス・ドラマの流れは、着々と動いていくようになりました。
さてここで来日したグレート東郷ですが・・・実は力道山にワールド・リーグの来日外国人選手をブッキングしたのは彼、東郷であり。
さらに言うと、あのミスター・アトミックも、東郷のアイディアだったという説があるのです。ロスでファイトする、実力者だが地味なレスラー、クライド・スチーブンスを、力道山と合作で、恐怖の赤覆面に仕立てたという。
その発想のぶっ飛び具合を思うと、それも納得という気がします。明らかに、それ以前の日本マットにはなかったコンセプトですからね(邪道外道もやってること、これと変わらないですし)。
グレート東郷は、日本マットに初めて「アングル」を導入した男、と言えるのかもしれません。
感想・総括
ということで、テレビレギュラー放送開始直後の日本プロレスの流れを見てきました。
物理的にいえば、1958年9月から恒常化したプロレス興行。しかし真の意味でプロレスがアングルをはらみ、連続ドラマ化していったのは、1959年4月のミスター・アトミックの初来日以降ということになるでしょう。
そしてそのドラマが、複数の語り手によって、現在まで語り継がれているとしたら・・・それはやっぱり、凄いことだと思うんですよね。