プロレスブック考察③~ジャイアント馬場が両者リングアウトをやめた日
先日、猪木のシングル不敗記録を調べていて、両者リングアウト、反則勝ち、負けなどの不透明決着試合が、あまりにも多いことに、改めて気づきました(1979年の猪木は、シングル35試合のうち、19フォール勝ちに対して11反則勝ち1反則負け、2両者リングアウト、2無効試合。全体の45%が不透明決着という状況でした)。
不透明決着が多いのは昭和の新日本、全日本プロレスの特徴で、この事実を無視しての昭和プロレス礼賛には、私は否定的なのですが・・・
ただこの不透明決着試合は、平成に入って、ほぼ根絶されてしまったのです。それも、誰からも「今日から完全決着制にします」とアナウンスされたわけでもなく、気がついたら、そうなっていたのです。
ただ、理由が何であったかはともかく、「いつからそうなったか」は、記録を調べればわかることなので、それを全日本プロレスの記録から検証していきましょう。
まずは1987年(昭和62年)のシングル・タイトル戦から振り返ります。
1987年のシングル・タイトル戦の結果を見る
1月19日 PWF 長州(体固め)ヘニング
1月31日 UN 天龍(四つ葉固め)ランカスター
3月7日 NWA フレアー(両リン)谷津
3月10日 NWA フレアー(反則)鶴田
3月12日 NWA フレアー(首固め)輪島
4月2日 インター 鶴田(片エビ固め)リッチ
4月17日 PWF ハンセン(両リン)ドリー
4月23日 PWF ハンセン(両リン)輪島
4月24日 インター 鶴田(無効試合)谷津
4月24日 PWF ハンセン(首固め)輪島
5月5日 UN 天龍(両リン)谷津
7月19日 PWF ハンセン(両リン)谷津
7月22日 インター 鶴田(反則)ハンセン
8月31日 PWF ハンセン(反則)谷津
9月11日 PWF・UN ハンセン(両リン)天龍
9月12日 インター 鶴田(片エビ固め)ニック
9月15日 PWF ハンセン(リングアウト)輪島
何と17試合10試合が不透明決着という惨状?です。
ジャパン・プロレスのトップの長州が去り、代わりに谷津を格上げしようとしたことも災いしていると思いますが、5月5日のUN戦から9月11日まで5試合連続で不透明決着と、タイトル戦線が膠着状態になっています。
この他、天龍革命によって実現した鶴竜対決も、初戦は天龍のリングアウト勝ち、2戦目は天龍の反則勝ちでした。
この年の雰囲気からすると、不透明の根絶など想像もできなかったのですが。
1988年のシングル・タイトル戦結果
1月2日 AWA タイガー(リングアウト)ヘニング
1月17日 インター 鶴田(反則)ブッチャー
3月9日 PWF・UN 天龍(首固め)ハンセン
3月27日 PWF・UN 天龍(反則)ハンセン
3月27日 インター ブロディ(体固め)鶴田
4月4日 インター ブロディ(リングアウト)谷津
4月13日 三冠 ブロディ(両リン)天龍
4月19日 インター 鶴田(片エビ固め)ブロディ
6月10日 UN 天龍(エビ固め)スパイビー
7月27日 PWF・UN ハンセン(リングアウト)天龍
9月19日 インター 鶴田(反則)ブッチャー
10月27日 三冠 鶴田(両リン)ハンセン
1988年は12試合中5試合が不透明決着でした。天龍がハンセンからピンフォールを取ったり、鶴田とブロディがフォールを取り合ったりと、前年よりはスッキリした印象があり、三冠統一への動きも含めて、風向きが変わっていく予感は出てきました。
しかし10月の三冠戦が両リン、そして鶴田天龍戦が、鶴田の反則勝ちになると、なまじ決着試合が増えた反動で、マスコミやファンのフラストレーションが高まったようで、批判が大きくなりましたね。
1989年のシングル・タイトル戦試合結果
3月8日 NWA スティムボート(エビ固め)タイガー
3月29日 PWF・UN ハンセン(体固め)天龍
4月16日 三冠 鶴田(無効試合)ハンセン
4月18日 三冠 鶴田(エビ固め)ハンセン
4月20日 三冠 鶴田(体固め)天龍
6月5日 三冠 天龍(エビ固め)
7月18日 三冠 天龍(エビ固め)谷津
9月2日 三冠 天龍(エビ固め)ゴディ
10月11日 三冠 鶴田(エビ固め)天龍
そうして迎えた平成元年、1989年。
4月の後楽園の三冠戦、鶴田ハンセン戦が無効試合となり、温厚なはずの全日本ファンが暴動寸前の騒ぎになりました。ご覧のとおり鶴田ハンセン戦の不透明決着は定番でもあったのですが、三冠統一の期待がかかり、なおUWFが格闘技的なイメージでブームを起こしていた当時とあっては、もうファンの許容範囲を越えていたのでしょうか。馬場社長も、何かをここで思ったことでしょう。
この試合が、タイトルマッチ最後の不透明決着試合となり、鶴田の三冠統一以後は、全試合決着がつくように、なっていきます。
特に6月5日の武道館での、天龍の鶴田へのパワーボムでの完勝は、それまで不透明決着が多かった鶴竜戦(4月20日大阪の試合は、鶴田のアクシデント的なフォール勝ち)だけに、強い印象を残しましたね。
しかもこの武道館大会は全11試合が全てフォールで決着がつくという、画期的な大会でした。特に、デビューしてまだ1年4か月の小橋健太が、外国人のジョニー・スミスに網打ち原爆固めで勝ってしまった試合、ダニー・スパイビーと初来日のスティングという、いかにも両リンになりそうな試合が、まさかのスパイビーの勝利に終わった試合は、強烈な印象を残し、馬場の方針転換を、感じる人は感じたはずです。
不透明決着根絶の日は?
ではこの武道館大会が、不透明決着の根絶した日なのかというと、詳しく調べてみたら、実はそういうことでもなかったのです。
まず、後楽園で暴動が起こったチャンピオン・カーニバルでは、暴動以前に10試合の両リン、8試合の反則決着試合がありました。
鶴田ハンセン戦の後、不透明決着試合は激減しますが、かといってゼロになったわけではありません。
何と翌日17日には、仲野信市とローデス・ジュニアが両リン試合をやっていますし、5月12日に開幕したスーパー・パワー・シリーズでは、21日に川田・冬木とカンナム組が両リン、5月23日と25日には高野俊二とディック・スレーターが両リンをやっています。
しかし5月26日以降は不透明決着試合がなくなりました。
となるとその26日、あるいは象徴的な意味で武道館大会が、不透明決着根絶の日かなとも思ったのですが・・・
実は武道館大会の翌日6月6日、シリーズ最終戦、横須賀市総合体育館の試合で、ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミスのブリティッシュ・ブルドッグスと、ダグ・ファーナス、ダニー・クロファットのカンナム・エキスプレスの「タッグ五番勝負」最終戦が、15分21秒で両者リングアウトになっているのです。
7月に開幕したサマー・アクション・シリーズでは、不透明決着試合が1試合もないので、事実上この6月6日が「全日本プロレス最後の不透明決着試合」となりますね(翌年にブッチャーとシンの両者反則試合、馬場の負傷による、馬場アンドレ対ファンクスの両リン試合、91年にもキマラの負傷による両軍反則試合もありますが、これらは例外的なものと見るべきでしょう)。
つまり、新シリーズ開幕の7月1日大宮大会こそが、全日本プロレスの「完全決着制移行日」となるわけです。
この日はあすなろ杯リーグ戦で、川田利明と小橋健太が熱闘を繰り広げ、小橋はこれがテレビ初登場になるという、記念すべき大会でもありました。
小橋は15日の後楽園大会で、鶴田と組んでメインエヴェントに抜擢され、天龍ハンセン組と対戦。以後、完全決着時代を象徴するヒーローになっていきますね。
馬場はいつ、どのようにして決断したか
さて、これらの状況をふまえて、全日本プロレスの社長、ジャイアント馬場が、いつ、いかなる理由で、不透明決着試合根絶を決断したかを推測しますと。
まず、時期的に言えば、後楽園暴動が起きたチャンカン終了の4月20日と、5月12日開幕のスーパー・パワー・シリーズの、オフの間に構想を練り、最終的にはシリーズ後半の5月下旬に決断した、と考えるのが妥当だと思います。
武道館翌日のブルドッグスとカンナムの両リンについては、これがシリーズ開幕戦から続く五番勝負の最終戦だったことを考えると、当初からの予定であるがゆえに、変更不可能だった可能性もありますしね。
では、いかなる理由で。という部分を考えると。
もちろん後楽園での暴動があり、UWFのブームという背景もありました。
三冠統一で、新たなストーリーに踏み出すタイミングでもあった。
さらに言うと、WWFの独走によりNWAが崩壊寸前の状況で、もうアメリカから来るレスラーの格を、無理に保つ必要がなくなったということも、あるでしょう(ハンセン、ゴディ、カンナムらは、日本定住型になっていたので、日本人選手同様に采配できる)。スティングへにつけた負けは、その象徴かもしれません。
でももう一つ、馬場の深層に、潜んでいたものがあるかもしれません。
馬場は、1985年の鶴田長州戦を「両者リングアウトなし」の完全決着ルールで行いました。まあ試合は結局、60分フルタイム引き分けだったので、「決着つくぞ詐欺」みたいなところもあったのですけどw
でもその時に馬場が語った理由が、面白かったんですよ。
。
「お互い、見栄えを気にして、負けるのが嫌で、場外に逃げちゃうということがあるんですね。そういうのをなくそうと」
つまり馬場はこの時点で、「両リンはレスラーが意図的にドローに持っていくための手段である」ことを、半ば認めちゃってるんですね。
それはもちろん「両リンはブックだ」という意味には直結しないんだけど、少なくとも「両リンはお互いが格を保つための、一種の無気力試合である」ことは匂わせているんですよ。
馬場には、両者リングアウトの持つ不自然さが、何となく気になっていた可能性があるのです。その割には乱発していたわけですが、でも自分が第一線を退いて、弟子の時代になったら、変えてもいいんじゃいかと。そう思っていたフシも、全くなくはないんですね。
結果的に全日本は、三冠というベルトにストーリーを集中させ、そこの完全燃焼、完全決着で武道館を熱狂させ、90年代の成功を導きましたね。
三沢にも小橋にも両者リングアウトや反則負けは似合わないから、キャスト的にも、この時期の決断で成功だったのでしょう。
これだけ云ってアレなんですけど、昭和の不透明決着には不透明決着なりのメリットもあり、単純に否定的側面ばかりではないと思ってもいます。
ただ、プロレスの質を変えた転機であるにも関わらず、それがいつ根絶されたかが明確でなかったので、今回それを検証してみた次第です。