学問よ進め

今年のイグノーベル賞(Ig Nobel Prize)が発表されましたね.なんと今年も日本人が.ほぼ毎年,日本人が何かしらの部門でイグノーベル賞をかっさらっている.

いや,実に嬉しいことではないかと思うのですよ.正直な話,これはノーベル賞を取ることよりもすさまじいのではないか.
そう思わせるのは,イギリスや日本に代表されるような奇人と皮肉を愛する私の賢しげさ(実際に賢しいかはこの際アジェンダではない)故ではなくって,アカデミアにおいて実用性や権威主義の一切を含まないある種のフロンティアであるように思えて仕方がないからなのだ.

学問に貴賤なし,などと宣いながら実際には権威主義や先進性,目先の実用性等々に捕らわれた挙句,自ら首を絞めるという構図もそこそこに見受けられるものである.本来声を上げる側である学者が,主義に足を突っ込んだまま抜けなくなってあわわわわわ,なんてこともある.

斯く言う私だってそうだ.総ての学問は学問として独立していて,ああだから憲法23条は実に素晴らしいものだな,なんて謳い乍ら,然る昨年のD志社大学の編入試験の面接本番で,私はこう言い放ったんですからね.
「数理的な客観性を伴わない研究に意味なんてあるんですか?」
随分と呆れた身の程知らずの餓鬼仕草に我ながら惚れ惚れしてしまった.

厭,言い訳をするのであれば,あれは面接官のバb,madamも悪い.あれほど喧嘩腰で詰め寄られるのならこちらだって同じ土俵で馬鹿になって暴れざるをえまいよ.少なくとも私は理系畑出身で,チョムスキー學派で,なにより物理学至上主義,理論屋至上主義の抜けない青臭い餓鬼だったのだから,「情報文化学科じゃなきゃダメな理由を言ってほしいんだけどね」とか偉そうに云う相手が間違っている.

そう,兎も角だ,日本やイギリスと云うウィットを美徳とする国民性云々は指しぬいても,然うやってコンスタントにイグノーベル賞が取れる,これがもう素敵なことに他ならない.ここのところの日本のアカデミアの雲行きは「どんより」では言い切れない暗然感に充ち満ちているが,こうして時折手元を照らすくらいの明るさがある.いいじゃないですか.

ここのところ,持ち前の「人生下手くそグランプリ優勝候補」の才能を見せつけるようにして社畜(正確には「バイト畜生」略して「バ畜」)な生活をせっせと送っていたものだから,ほとほと疲れてしまって希死念慮がニョキニョキと筍の如く生え散らかして危うく脳内が竹林になるところであった.いやもう竹林か.「草生える」の代わりに今度から「竹生える」を使おう.
何を書こうとしたか忘れちゃったじゃないか.

違う,そう,希死念慮に苛まれて文字通り七転八倒していたのだが,それでも,やっぱり学問がここのところ楽しくて仕方がない.電波天文学が恋しくないのか,と言われれば否定もできないが,何時迄も未練がましく引き摺る訳にもいかないし,理論言語学の勉強も,少しずつ視界が晴れてきた様に感じる.ダニングクルーガー効果で言うところの「啓蒙の坂」ってやつか.

恵まれたことに,弊学は日本の国立大学の中でも有数の理論言語学,とくに統語論の聖地であって,優れた,そして人格にも優れた若手統語論者のもと,平穏に言語学専攻をやらせてもらっている.幸せそのものではないか.
如何も,私はやはり理論屋が肌に合うらしい.私の恋人はどうもそこらへんが正反対で,文化人類学者と云うのは斯くあるのだなあ,と少しばかりの敵視と他分野への憂いをもって眺めている.アカデミアに友人は多いが,その多くは理工学の畑の民で,文化人類学なんてのとは接点がなかったし,今更になって.「如何も矢張り根本的に思想が異なるのだ」という気づきがあった.

それでも,人文学部というポジションに置かれながら,「我々は科学者なのだ」と言わんばかりに「言語科学論」などと銘打って,つぶさに数理的な論述とモデル化をもってして文法を記述せしめようとするこの空気感は,故郷とも云うべき安心感すらある.じつに居心地が良い.愛おしい,とはこういう時に使う言葉なのかもしれない.

いつか,私もイグノーベル賞が取れるだろうか.今のところ理論言語学でそのような人は見たことがない.いや,高望みは止そう.一先ずは,学会で「素人質問で恐縮ですが…」と手を挙げて,本当にド素人な質問を振って苦笑されるところから始めようではないか.

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