りぼーん 最終話 (第27話)
60歳を半年後に迎える田中が、その先を考えて選んだ仕事を縦糸に、
田中の父との日々や、コロナ禍で生きる市井の人々を横糸にした話。
前回まで
・文雄 逝く②
「本日はご多用のところ、父、文雄の葬儀にご参列いただきまして、誠にありがとうございます。
親族を代表しまして、と、申し上げても本日は殆ど親族の皆さまばかりですので(笑)…、
ご挨拶は不要かと思いましたが、一応決まり事ですので(笑)」
「父は昭和4年に男5人、女2人の7人兄妹の末っ子で生まれました。
14歳の時に、海軍技術研究所電波研究部に入所しました、今ならまさに最先端のエリアかもしれません…。
16歳の時に終戦で退所、18歳から20歳まで帝国大学医学部放射線科で働いていました。
母と知り合ったのがこの時期と思われます、
20歳から法正大学法学部に入学、22歳で東京地方裁判所にアルバイトで入所、25歳で法正大学を卒業しています。
以来、約40年執行官室にて働き、60歳の時に定年退職いたしました。
裁判所で働いていた頃は、高度成長期と重なり多くの勤め人と同様に、朝から晩まで仕事、仕事で、
毎日が午前様でした。
昨今とは違い、土曜日も仕事で、日曜でさえ仕事の時もございましたが、これは少し疑わしい部分もあり(笑)、
後ほど後輩の広沢様に、確認しようかなと思っています。
この時代の父はその仕事柄の為か、私にとっては大変怖い存在でした。
常に父の目を気にしていた、記憶があります。
私が結婚して子供が生まれ、私自身が少し丸くなり始めた頃、その思いも消えていったと思います。
姉のお尻に押されて川に落ちて溺れた時に助けてくれた父、
葉山の森戸から名島まで泳いで帰ってきた父、
役所の当直の日に霞が関の裁判所のだるまストーブで作ってもらったチキンラーメン、
その古い中庭でしてくれたキャッチボール、
屋根のない後楽園で父と観たオールスターゲームや日米野球、
土曜の夜に行われた近所の方達との宴会での父、
そこで武田節からラ・クンパルシータまで披露していた父、
志賀高原にスキーに行ったのに母とお酒ばかり飲んでいた父、
2度のクモ膜下出血を乗り越えた父、
入院していた母に会いに毎日毎日帝国病院に通っていた父、
私の下手な料理に文句を言わず食べていた父、
昭和を懸命に生き抜き、平成で沢山の幸せと悲しみと、令和で静かな終末を迎えることができました。
今は唯々、『お疲れさまでした、長かったよね。
一人でこの13年はよく頑張ったと思うよ、ありがとう。
ようやく母さんに会えますね』
と、本当に心から思います。
本日はご多用のところ、ありがとうございました。
お時間が許す限り私共と一緒に、父への思いを寄せて頂ければ嬉しいです」
葬儀の挨拶に用意したが、原稿の半分も読まなかった。
文雄と2人で過ごした13年の生活が、田中の頭の中を勝手に流れていた・・・
深夜・早朝の救急車の同乗や入退院の手続き、
深夜・早朝の警察からの身柄の引取り要請、
毎日の朝食づくり、日曜の3食づくり、
日々の買い物や洗濯・掃除、
季節の衣替えや寝具の夏支度と冬支度、
デイサービスの人々とのやり取り、
毎月の通院での診断と薬の手配、
区役所の担当者とのやりとり、毎年の確定申告、
そして父とのバトル、私にはけして手を上げず、
抵抗せず私のするがままにさせた父・・・
最初の頃は分からない事ばかり、其々に対して
煩わしく時間が掛かる事への苛立ちに似た感情と、
孤独感が常にあった。
同時に特に皓太郎に対しては、大学から社会人への成長の中で、見守れていないという自分への腹立たしさもあった。
瑤子や田中の子供や孫、父の甥っ子や後輩とその娘など、総勢30名弱の人が最期の別れをしてくれていた。
言い表せられない複雑な感情に、田中は覆いつくされていた。
しなければいけない事後手続きなど最低限のことは出来たが、あとはまったくする気になれない自分に少し驚き、それを勝手に認めた。
文雄と暮らしていた時に感じた煩わしさや、人生の残り時間への焦りといったものは、どこかに消えた。
ただ一つ決めたことは、これから寒くなるので文雄の納骨は来年の春にしよう、ということだった。
連載のさいごに
今回を持ちまして、この連載は終了します。
拙い文章にお付き合いいただき、まことにありがとうございました。
モノを書くという行為が楽しい事であるという
発見と、新しい事にチャレンジできたことを嬉しく思います。
また、いずれどこかで、それまでさようなら。