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りぼーん 第26話
60歳を半年後に迎える田中が、その先を考えて選んだ仕事を縦糸に、
田中の父との日々や、コロナ禍で生きる市井の人々を横糸にした話。
前回まで
・文雄 逝く①
目次
・文雄 逝く②
2021年9月26日(日)午前7時30分
田中の携帯が鳴った・・・、目覚ましタイマーの5分ほど前に、2時間の仮眠からは覚めていた。
電話を受ける前に、「もたなかったんだな」
と思った。
気管を切開しての挿管は止めた、ただ息をしているだけになるから・・・。
仮眠の時に見ていた夢を、はっきり覚えている・・・
田中が幼稚園に通っていた頃のある日曜の午後、
田中は文雄と瑤子と3人で、近くの恩田川に行った。
文雄は釣りをしていた、田中と瑤子は水辺で遊んだり、花を摘んだりしていた。
文雄が川の深みに移動したので、田中も瑤子もその後に続いた。流れは速くないが、それなりに水深があったと記憶している。
幅が60㎝ほどの細い石の橋を渡って、文雄の処に行こうとした田中は、橋の中ほどにいて川の中を見ていた瑤子が屈んだその時に、押されたように川に落ちた。
今でも川の中に沈んでいく自分を思い出せる…、
次に見たのは文雄が飛び込んで来たことである。
気がつくと、文雄の背中におぶさっていたが、それから先はよく覚えていない。
自宅で目を覚ますと母の郁子がそばに居て、文雄と瑤子に「目を覚ましたわよ」と言っているのを聞いた・・・
「もしもし、田中です」
「こちらは、東武病院の看護師の石井です」
「お世話になります、何かございましたか」
「実は、10分ほど前から酸素濃度の落ち込みが、
回復しません…、
どれくらいで、こちらに来られますか?」
「連絡ありがとうございます、10分~15分で
伺えます」
田中は事務所の職員に事情を説明し、回送の表示を確認して病院に向かった。
7時45分
血圧150~184、脈拍70、血中酸素濃度85、病室に入った田中の目に入った数字である。
田中はベッドに近づき、酸素吸入している
文雄の顔、頭を撫でた。
文雄は、数字以上に重篤に見えた。
「もう、頑張らなくていいよ・・・、
母さん、待ってるから」
看護師はつかず離れずの様子。
かすかな希望は失われたと、感じないわけにはいかなかった。
田中は、何故このタイミングなのかとか、どうしてこんなに早く事態が進むのかとか、いろいろな思いが湧水の様に、次第に浮かんできた。
コロナ禍ではあったが永遠にこの状況が続くわけがなく、規制も徐々に緩和され、落ち着いていくだろうと思っていた。
そして、その先10年ほどは長くはないだろうが、
文雄も天寿を全うするだろう、して欲しいと、
田中は想っていたのだが・・・。
7時56分
当直の若い医師は死亡の診断をした、下手な字で
死亡診断書の署名欄に、氏名が書いてあった。
何も出来ないまま文雄を黄泉の国に送り出してしまったという感覚と、もう十分できることはしたという矛盾した感情が、湧いてきた。
涙は、でなかった。
田中は郁子の葬儀の時と同じ葬儀社に連絡を取り、瑤子や荻窪の家に電話した。
田中は会社に戻り、所長に事情を説明し朝方の便宜への謝意を伝え、後日の連絡を約束した。
いつもの様に洗車をしながら、田中はふいに、
鼻の奥がツンと痛くなるのがわかった。
その後、何をしたのかは思い出せない・・・。