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りぼーん 第2話

60歳を半年後に迎える田中が、その先を考えて選んだ仕事を縦糸に、
田中の父との日々や、コロナ禍で生きる市井の人々を横糸にした話。

前回まで
社長との面談の結果、新たな仕事探しを決断した田中と、同居している父との生活について

目次
・母のこと
・子供の頃のこと

母のこと

田中の母親は13年前のクリスマスイブの前日に、
小細胞肺がんで。亡くなっていた。

田中は母郁子が、未だに夢にさえ出てこないことに、釈然としない想いが常にどこかにある。

文雄の世話が忙しくなればなるほど、何故…、どうして…、という想いが頭を過る。

郁子は明るくて、同世代の女性としては大柄で、それ故少し目立った存在であった。

料理も上手く、近所の主婦たちの相談相手になるような女性であった。

子どもの頃の田中は、完全に母親っ子で、母親さえいれば十分と感じていた。

しかし、田中が小学校の高学年に差し掛かる頃、家計の事情で看護師として現場に、復職をした。

駅の近くの個人病院であったが入院施設もあり、郁子は夜勤の病棟勤務をしていた。

田中は郁子が出勤する日の夕方になると、落ち着かず不安でいっぱいになったことを、今でも思い出す。

夜は4歳上の姉の瑤子が、田中の面倒をみていたのであるが、そんな時でも文雄はけして早くは帰宅はしなかった…。

郁子は結婚する前、国立病院の看護師をしていた。

結婚と同時に看護師を辞めて、家庭に入り、田中と4歳上の瑤子をもうけた。

郁子は静岡の焼津で、2男5女の4女として生まれた。

他の兄妹たちは県内で働き、暮らしていたが、郁子だけが東京で独立していた。

看護学生のころ、妹や弟が一時的に東京に居たので、郁子の下宿に彼らが居候をして、面倒をみていたようだ。(生前の郁子に、満足に世話をしてやれなかった後悔を聞いたことがある)

子供の頃のこと

田中が、幼稚園から小学校の頃の東京は、郊外で団地建設のラッシュであった。

丁度その頃は、最初の東京オリンピック前後の、熱っぽい時期、昭和30年から40年代中頃まで、高度経済成長の最中であった。

東京都町田市もその一つであり、市内にいくつかの団地群が出来ていた。

田中の団地は、駅からバスで15分ほどの距離にあり、その頃の住まいの周りは畑や森林、小川がまだ多く残っていた。

その後、ある私鉄が路線を延線して周辺の開発を始め、他の東京の郊外にある様な現在の景色に変えていった。


田中が小学生の頃の文雄は、土日ですら満足に家に居たことはない。

まして、平日に夕食を共にした記憶は、殆どない。
仕事が忙しく、朝早く出勤し、帰りは午前様が普通であった。

たまに日曜に、文雄が家に居ても、田中から遊んで欲しいと、言った事はない。

文雄に対して、いつも恐れに似た感情や距離を感じていた。

それは、文雄の仕事に少し関係するかもしれない、彼は裁判所の執行官であった。

常に強制的な力を行使する側面を持った職業の為か、表情は厳しく、叱られた記憶はあるが、褒められたり、可愛がられた記憶は殆どない。

田中の普段の生活の中に、文雄の存在は小さく、それは長く続いた。

田中が社会人となり、家庭を持つ頃には流石に恐れは無くなっていた…、然しながら正体の分からない、わだかまりのようなものを、抱えている気がした。

次回予告:田中の新しい仕事について

>執行官とは、裁判の執行、裁判所の発する文書の送達の事務を行う職員。各地方裁判所におかれ、報酬は手数料制。

岩波書店 広辞苑より







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