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りぼーん 有志特別編 水色のビートル

第10話は、コロナ禍の人々の予定でしたが
変更してお送りいたします(笑)
ゴメンなさい😊



その日、小枝子は萌黄色(もえぎ)の辻が花に
藤色の名古屋帯、薄桜の地に桜小紋の半襟と
桃色の帯揚げと帯締めをしめて、

待ち合わせ場所の、広尾しろ山に向かった。

時間は4時30分を回ったばかりであった、
電車に不慣れなため、早めに自宅を出た。

前日、小枝子は83歳の誕生日を、
洋光台の家で一人で迎えた。

夫の達郎に先立たれること、15年が過ぎていた。


15年前の3月下旬の金曜日、達郎は銀行で自身の最後の役員会議が終わって、少しお酒を飲みすぎたと
タクシーの中から小枝子の携帯に連絡があった。

それまでも、何度か同じような事があったので、
小枝子は別段気にせず、風呂の支度をした。

達郎は午後の11時過ぎに着き、少し酔いが残っているとのことなので、入浴はしないで軽い洗面と歯磨きを終えてベッドに就いた。

特に変わったことはなく、小枝子も自分のベッドに就いた。

翌朝、小枝子はいつもの様に6時半頃起きて
朝食の支度を済ませ、コーヒーを飲んでから
7時半頃に達郎を起しに行った。

達郎は、その時既に、息途絶えていた。

それからの記憶は小枝子にはなく、気がついたら
娘の奈津子が、斎場の隣に座っていたのである。

小枝子は状況を全く理解できないまま、
目の前の現実を受け入れられない事と、

なぜ、どうしてという想いが、堂々巡りのように繰り返し小枝子の頭を襲うのであった。

当日の警察やすべての対応を、
奈津子がしてくれていた・・・。

達郎の死因は大動脈解離、ほぼ即死状態であったと、検視した医者から奈津子は聞いた。

四十九日、卒哭忌が過ぎても小枝子は出口の見えない迷路に入り込んだように、
精神的に不安定な日々を送った。

奈津子が実家に泊り込んだり、
一緒に精神科にも通った。

七回忌も過ぎたころ、小枝子の表情に明るさが戻り、時々笑うようになった。

10年を過ぎた頃、近所であれば車の運転が出来るまでに回復していたが、時に助手席の奈津子がヒヤッとするような場面が、起こるようになっていた。

学生時代の友人達との、近郊への小旅行のお誘いは、以前なら必ず小枝子が運転を一手に引き受けていた。

が、奈津子はその時、電車の旅を懸命に勧めた。

その後、奈津子は悩んだ末に、運転免許証の返納を小枝子に勧めた。

小枝子も自覚はしていた、が直ぐには納得できずに「少し時間が欲しい」と言った。

小枝子は、車の運転が大好きであった。

子供の頃、父親がよく車であちこち連れて行ってくれたからかもしれない。

大学時代に免許を取ると、一人でもあちらこちらと父親の車を借りて、出かけた。

都内や横浜は勿論、軽井沢や小諸、箱根や川越、
佐原などに足を延ばした。

達郎とは、大学時代のテニスのサークルで知り合った。

達郎が卒業近くのクリスマスに、結婚を前提に
つき合ってほしいと、告白を受けた。

少し内気で、弱気に見える達郎であったが、
真面目な性格と、意外としっかりしていることに、
小枝子は好感を持っていた。

小枝子は「2年後の卒業の時、もし気持ちが変わらなければ、お受けします」と答えた。

小枝子と達郎は、小枝子の卒業の年の6月に、
結婚した。

その後、達郎の名古屋転勤を経て、
一女を授けられ、暫くして東京に戻った。

その期に、小枝子の実家に近い洋光台に
小さな一軒家を購入した。

小枝子の運転好きは結婚後も続き、達郎に
父親の車と同じフォルクスワーゲンの
水色のビートルを強請ったのである。

3年前に免許を返納するまでは、
達郎の駅への送り迎えや、奈津子の送り迎えも、
普通にしていた。

小枝子は奈津子の家族、夫のイギリス人ディビッドと2人の息子、
会社員の長男健一と次男の大学生の伸次と、

誕生祝いの夕食を済ませて、南青山のイーストで食後のコーヒーを終えた。

時計は午後8時30分を過ぎていた、
いつもの様に奈津子は、スマホのアプリでタクシーを手配した。

有志の車が、店の前に到着したのは約束の5分前
であった。

奈津子は到着の知らせを受けて、
「そろそろお開きよ」と、皆に告げた。

(つづく)












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