話を大きくする人たち / 変えたがる人たち
1. 変えたがる人たち
「変えること」、「改革」や「変革」を無条件で正しいと思っている人がいる。現状の問題や課題を摘出し分析し、その解決案を提案し「変革」を声高に叫ぶ。彼らに欠落しているのは、現状のありようの存在理由への視点と、それを変えることのネガティブな側面への配慮と、いくつかの複数の解決案の可能性を検討する知性である。
彼らはしばしば「解決案」がもたらす効果だけしか喧伝しない。それにかかる費用や影響を事前に推定しようと考えない。大阪での行政統合をめぐる一連の騒動でも明らかになったように、費用が効果を上回ってこそ解決案といえるのにもかかわらず、そういった思考や知性を「改革派」の人たちは持ち合わせていないようだ。
彼らはまず変えてみてだめなら修正すればいいというが、なぜ現在の状態がここで成立しているのかの存在理由を理解しようとしない。彼らは「改革」を叫びながら、とにかくまず現状を破壊してその混乱に乗じて、お金を稼いだり、権力を行使したがる、壊し屋にすぎない。とくに、いわゆるグローバリストたち(GAFAクラスに勤務していまは大学教授におさまっているようなひとたち)は、既存の産業・システム・スタイル、そして今あるささやかな生活とその幸福もふくめて、それらすべてを破壊することに(使命感すらもって)情熱をそそいでいるのは恐ろしいことだ。いったん焼け野原にしてから新しいビジネスを始める巨大スケールでの「焼き畑農業」なのだ。
2. 破局を待つ人たち
財務省の心ある官僚たちは、来るべき財政破綻の日のためのシミュレーションに余念がないそうだ。預金封鎖の段取りとかを検討しているのだろう。そんな財務省を出て、サポーターと称して在野で危機感を広宣活動する大学教授なんかもいる。選書などを書いて無知な国民を啓蒙し危機感を煽るのに忙しいようだ。
彼らとその先輩たちは、長い間自分たちの保身と出世のために、政治家の選挙対策につきあって、赤字国債と財政出動を実行し続けてきたのである。そして今度は、その財務官僚たちが、自分たちが加担して生み出してきた危機や財政破綻について、自分たちの責任にいっさい触れることなく、エリート面をして訳知り顔に、無知な私たちにご高説を賜る。ありがたくて涙が出ますよ。
今のままでは破局がくるといって警鐘を鳴らして改革を叫ぶ人は、自分の悪い予言が実現するように期待してしまうので、結局状況を悪化するほうに加担しがちである。たしかに彼らは警鐘を鳴らしつつも、結局はその破局を待望しているのではないか、ということだ。その時にこそ彼らは思う存分力を発揮できると信じているのだろう。自分の資産はちゃっかりと海外に移転済かもしれないが。
大きく言えば彼らは、資本主義や技術革新を加速させて破局を待望する「加速主義者」のような、一種の終末論者なのかもしれない。
とくにこらえ性にない日本人はカタストロフに走り勝ちなので、とりあえず「保留すること」「立ち止まって考えること」「(変えることより)今より悪くしないこと」を主張するほうが、まともであり、誠実な知的態度なのだ。
3.「不都合な真実」をいいつのる人たち
環境破壊への対策や来るべき大震災への備えが足りないとか言って、ひとびとを「叱ってまわる」人たちがいる。大豪邸に住む元副大統領は、ジェット機で世界中を駆け回りながらCO2排出を攻撃したりする。彼は事前に環境系企業に投資していたそうだ。各地の自治体の防災の不備を叱って回る自称「防災の鬼」がいる。誰もが苦しんでいる状態に対して、自分が助けられもしないのに、エラそうに説教をたれるのだ。
言っていることはごもっともだが、どうして一段上の立場に立って、上から目線で、わたしたちにモノを言えるのだろうか。自分もまた同じ環境にいるのではないか。危機的状況にたいして、吉田松陰のようにスキゾ的に反応して騒ぐ人は良い。彼は自ら行動し、たんたんと処刑される覚悟があった。自分は安全圏にいて「不都合な真実」を言いつのる人とはちがうのだ。
4. 結局、人材育成とか教育を語る人たち
まちづくりとかエリアマネジメントとかDMO(観光振興)とか、その課題と解決について、結局は「人材が大事だよね」と結論づけて、すべてを語った気になっている人たちがいる。人材バンクとか大学教育カリキュラムを提案することで、問題のソリューションを語った気になっているのである。
本当は、人材論や教育論に行く前に、マネジメントの様々な工夫の方法論とか、人材に力を発揮させる仕組みの組織論など、真剣に検討すべきことはいくらでもある。
たしかに教育に話を帰着させること、教育を語ることは実は都合がよい。教育そのものがサステナブルなビジネスになるからだ。あるビジネスでお金を儲けることよりも、そのネタを教えるビジネス教材を売ることの方が、安定した収入を得られる。サブスクリプションビジネスなどで一発当てた人が、その成功例を語り歩く講演や商材販売、スクール運営など、それ自体をビジネスにしている。(競馬で稼ぐより予想情報を販売するほうがよいし、ゴールドラッシュ時に鉱山で掘る人より、彼らに日用品を売りつけたスタンフォードのほうが億万長者になった。)
しかしまあそれは、そんなに悪い話でもない。茶道や華道など日本の伝統芸術は、それ自体の創作活動というより、それを教える教育システムによって継承・維持されてきたといえるからだ。
5. 話を大きくする人たち
ここまでの人たちに共通しているのは、現状の問題を、身の丈に合った解決を考えるというより、問題を簡単には解けない範囲に拡大して深刻さを指摘してみせることだ。たとえば地域の問題を検討しながら、結局は道州制の導入を解決案にしたりする。
目の前の問題の解決よりも、はるかに困難で解けない問題に拡大したがる彼らは、ひょっとすると問題を解決することよりも、問題を大きくフレームアップすることに優先順位を置いて、自分たちの知的優位性を誇っているのかもしれない。
6. 自戒するわたし
ここまで書いてきて、以上のことは、まったく自分自身に当てはまることが多くて、もっと地に足をつけて考えていこうという反省と自戒の文章でありました。
7. (追記)グローバルな人たち
目先の利いた連中はどんどん海外移住している。自分たちがそこから受益している日本のシステムに先がないことがわかっているから、それをどう再建するかではなく、「火事場」から持ち出せるものだけを持ち出して逃げる算段をしている。「グローバルな連中」は、日本が消えても日本語がなくなっても日本文化が消えてもオレは別に困らない。こいつらが日本のためを思っているわけがない。どうやって日本から収奪しようかということしか考えない。(この追記分は内田樹ブログ2014/09/05より。新種の国粋主義ですが、自分も同感です。)
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