中国というシステム(2)帝国の逆襲
1.西洋史と中国史
スターウォーズの「帝国の逆襲」のように、アメリカ人は自分が帝国なくせに、なぜか帝国に反逆して、自由と独立を勝ち取るというストーリーが好きなようだ。じつは西洋人にとって歴史とは、小さな自由の国が(東方の)大帝国を破って発展していくというギリシア史を原型としているからだという。*1 十字軍やモンゴルも含めて、つねに打破すべき邪悪な帝国があるという歴史観によって決定づけられているのである。
ヘロドトスの「ヒストリイ」は、大国ペルシャに小国ギリシアが勝利する物語で、つまり西洋史は「変化」と「対決」を主題としているいっぽう、司馬遷の「史記」は、統治権限の由来を語り、変化を認めない「正統性」を主題としている東洋史(中国史)とは対照的である。
2.中国というシステムの連続性
なおかつ、西洋においては、こうしたギリシア以来の歴史観が哲学や思想も含めていったん「断絶」しているのである。西洋哲学の根本的な任務・使命とは、無知蒙昧な中世の間に行方不明になって埋没していたギリシア哲学を「発掘」して、キリスト教の「聖書」と、矛盾のないように「解釈」することであった。
アリストテレスは読んでいてきわめてわかりやすい。哲学はそれでじゅうぶんに完成しているといってもよい。実用的で役に立つ知識体系が提供されている。ところが近世以降の西洋哲学は、いつまでたっても根底に一神教的な神という不合理を抱えているから結局難解になる。究極の真理を追究しようとする動機は、なんかまさに宗教的で、ポストモダン以降の哲学の議論も、煩瑣で非実用的な英米言語哲学以外は、中世ヨーロッパの神学論争のごとく迷妄なアポリアに陥っている。キリスト教を含めて宗教は文化現象のひとつであると考えている私には、ハイデッカーとか西洋哲学をありがたがっている日本人もおかしく見える。
イエスキリストというひとりの気だてのいいアジテーターの処刑から発生したとある宗教(キリスト教)は、たまたまローマ帝国内で流行して世界制覇したけれども、しょせん十字架にかけられた死体崇拝であり、私から見ればインカ帝国の血塗られた人身供犠の熱狂と大差ないように思われる。
実は中国知識人もまたその点において、ほんとうは西洋人を侮蔑しているのではと思われる。吉川幸次郎は、そもそも孔子による「怪力乱神」を信じない中国文明の知性において、西洋文明を、神を信ずるものとして嫌悪し、侮蔑する所以があるのではと書いている。*2
歴史においても思想哲学においても、この断絶→発掘→解釈という経過をたどった西洋に対して、中国はとにかく連続しているのである。分裂した時代もあり、北方民族によって支配されたりとはいえ、帝国としては2000年一貫して統一体として存続しているのだ。
中国がヨーロッパのように分裂しなかったのはなぜか。中華帝国の連続性を支えたものは、①漢字という表意文字によるコミュニケーション手段であり、それによって維持された②官僚制であると私は考えている。
3. 漢字によるコミュニケーション
ラテン語という共通言語はあるものの、アルファベットのような表音文字では各地方の方言によって結局、意味内容の齟齬が生じて、管理と統制のためのコミュニケーションには限界があったので、ヨーロッパは分裂したのだ。一方中国では表意文字なのでどう発音されようが、とにかく文書が読めるので、統制と支配が容易だった。今でも、話し言葉に関しては各地方によって発音が異なって通訳がいるようだが、文章は2000前のものも読める。
余談その1 黙読について
余談だが、西洋で黙読の習慣が最初に確認されているのは4世紀ごろで、アウグスティヌスが同僚の黙読しているのを見てびっくりしたらしい。もっとも紀元前から黙読はあったらしいのだが。そして驚くべきことに、黙読習慣の普及が西洋の個人主義を生んで、その習慣がなかった日本では個人主義の誕生が遅れたという馬鹿馬鹿しい文章を読んだことがある。*3
それでは黙読で理解できる漢字ではどうだったのでしょうかね?表意文字なのでむしろ音読できないけど、見て意味がわかったのではないでしょうか。ここでのポイントは、西洋の表音文字こそ読まないとわからないので、だからこそ黙読が驚くべきことであって、個人主義の発生とは無関係なのではないだろうか。
さきの文章でも、黙読習慣が広がったのは、西洋では10世紀にはじめて単語の分かち書きが普及していったからだとも書いてある(それまでなかった!)。相当読みにくかったはずだから、それまでは声に出しての音読が普通だった。もっといえば古い聖書は「子音」しかなく、やはり専門家である聖職者が声を出して読んで初めて理解できたらしく、またその読解を独占するために、むやみに大衆に読み聞かせないようにということを意味したのが「豚に真珠を与えるな」ということらしい。
余談その2 漢字かなまじり文について
また余談だが、漢字かなまじりという日本語は、表音文字と表意文字の混合という珍しい形式で、漢字という表意文字を図像認識して大意をつかんで、ひらがなの表音文字できちんと補足するという、左右どちらの脳も使う便利で賢い言葉なので、これからも大切にしてほしい。ハングルのように全部ひらがなにせよとかいう漢字廃止論者、表音文字主義者?日本語原理主義学者がいるらしいけど、ほんと、勘弁してほしいですよ。韓国の手先か!大学教育での英語推進者も含めて、日本人の知能低下を目指している売国奴としか思えない。
4. 官僚制
漢字のコミュニケーションによって維持されてきたのが中央集権の官僚制である。士大夫と呼ばれる支配階級は、科挙という世襲性による独占を避けるシステムによって、官僚になることができ、優秀な官僚の輩出源であり続けた。(今の東大生の出身家族の階級が議論になるけど、すくなくとも科挙があればある種の平等性は担保されている。)皇帝のトップがどう変わろうと、王朝がどう変わろうと、共産主義になろうと、とにかく官僚になることが、2000年にわたって中国人を支配してきた夢であり、いったんは混乱・分裂したとしても、ふたたび中央集権の官僚体制を復活させて官僚になることへの願望が、絶えず統一へ向かわせる強力な推進力になっているのだ。
道教において、死後に行く天界には多くの宮殿がありその宮殿ごとに神の官吏がいるというモデルになっていて、アンリ・マスペロは感心して「中国人は神の世界においてさえ、官吏になること以上の幸福を思いつかないのである。」*4と書いている。
5. 行動様式のモデルとしての歴史
西洋人はあまり認識していないかもしれないが、先に書いたように、中国というシステムは、いったん断絶している西洋よりも、はるかに確固たる連続性があって、それは言い換えると、あらゆる政治的、社会的、思想的、文化的な活動に対しては、中国自身でオリジナルに自前で参照できるモデルとしての歴史(中国史)が存在するということである。中国人の行動様式は、全て過去の歴史にそのモデルがある。
司馬遷の「史記」は、「述べて作らず」として、過去の文献からの典拠主義にもとづいたが、「史記」自身が以降の典拠となった。中国人はつねに過去になぞらえて現在の行動を決定する。特に「史記」の「列伝」というスタイルは、歴史上での個人の振る舞いのモデルを提供する。列伝としてまとめられた歴史を読み、自分がどう生きるべきか、何をなすべきかのモデルとして活用するという、中国人の歴史認識のスタイルは、まさに「実用的な過去」Practical Pastとして歴史を読むことそのものである。歴史にどう名を残すのかが中国人のテーマである。*5
過去のモデルとする人物を参照する行動は、統治を優れた君子にまかせるという儒教の属人的統治モデルとうまく適合する。西洋のように絶対的正しさ(神)がいない中国においては、結局正義は正しい人にまかせることになり、その正しさは過去の典拠にしたがうことになる。
こうした確固たる連続性があるので、現在の中国のことを知るためには、依然として儒教的な官僚システムの研究が有効なのである。ましてそれがICTによって格段にバージョンアップされているのであるから。
外交においても、彼らの行動パタンは驚くほど過去に準拠している。秦の始皇帝は近隣諸国の大臣を黄金で買収し、離間を計って征服した。(中国の太陽光パネル代理店に名を連ねる河野太郎とか、習近平の銅像を立てようとした二階俊博とか、琉球独立を主張する混血の県知事とか新聞社とか、まず買収されているとみて間違いはない。そんな売国奴の政治家・マスコミのいる日本は大丈夫ですかね。)
6. サーベイランスシティ「監視都市」
中国では、ICTを活用した生活行動全てを管理するシステムが、世界でも最先端レベルで実装してされつつある。支払いをはじめとした経済状態、交友関係、交通違反、思想、信条あらゆる生活の行動が監視され記録され、ポイントによって管理されている。まさに、スマートシティのある種の理想形がそこに実現しているかのようである。(スマートシティというよりサーベイランスシティ「監視都市」というべきかもしれないが。)しかしむしろ彼らは、混乱よりはそうした管理を良しとしているように見える。道教を信じる民衆の間では「功過格」という善行と罪悪をチェックする表が長く普及していたので、意外とすんなり受け入れられたのかもしれない。現在のポイント制はまさに「功過格」の現代版なのである。
ブログによる発言も厳しくチェックされて不都合な情報を即座に遮断される。相当な人数をかけて対応していると思われるが、それでもICT技術の進歩は、かつての東ドイツの場合でもついに不可能であった(国民の5人に1人がスパイだったらしい。)国民全体の行動監視にある程度成功していると言われる。
コロナの初期の頃、日本人の駐在員も、中国の先端的な管理システムを称賛していたが、現在はどうであろうか。下手に批判すると、早速チェックされて、日本人ならスパイとかいう嫌疑をかけられて拘束される恐れがあるので、何も言えないかもしれない。実際、香港の独立系出版社の人は既に行方不明になっているし、欧州でも相当数の人が拉致拘束されて本国に送還されている。人権弾圧とか言論制限が国内に止まらずに普通に世界に染み出しているのである。いつもは自由と民主主義とかリベラルを標榜する欧米の有名な大学も、多額の寄付金によって、表立っての中国批判はしにくいらしい。中国の大量のCO2放出(世界の1/3?)をあまり追求せず、細かい規制とか制限を日本に押し付けてくる欧州ってどうなのだろうか。
毛語録いわく「政治は血を流さない戦争」であり、すでに彼らの「思想戦」は実行されている。実態においても、漢の武帝の張騫の派遣ルートのような一路一帯政策、鄭和の遠征を思わせる太平洋インド洋進出など、中華帝国の対外膨張が始まっている。まさに「帝国の逆襲」である。
*1 「世界史の誕生ーモンゴルの発展と伝統」岡田英弘 ちくま学芸文庫
*2 「中国の知恵 孔子について」吉川幸次郎 ちくま学芸文庫 p181
*3 「黙読習慣と個人主義」大谷卓史 「情報管理」2012年vol55
*4 「道教」アンリ・マスペロ 平凡社東洋文庫 p334
*5 歴史には、じつは通常の記述としての「Historical Past」だけでなく、 「 Practical Past」すなわち「実践に役に立つ過去」という意味もあるのではないかという問題提起である。そもそも中国における歴史とは、儒教的な正当な王朝の継承の系譜であり、そのなかの人間の「何をなすべきだったのか」という道徳的規範の豊富な実例を示す唯一絶対の典拠であった。近代の「科学」としての歴史に対して、中国では教訓・行動規範・意志決定の根拠のために歴史が提供されてきた。司馬遷の列伝を見よ。だからこんにちの中国の行動はすべて過去の中国史から想像できるので、面白いのだ。