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指原さんの「自分は他人が見つけてくれる」についてちょっと考える

 以前このブログで書いた指原莉乃さんの「自分は他人が見つけてくれる」「これからの計画論の条件(13)」2022年5月3日)にかんして、ちょっと考えていたことをまとめてみます。
 思想家ミハイール・バフチーン(1895-1975)に関する本を読んでいたところ、次のようなことが書いてありました。
 自己同一性の形成に関して、フロイトと同時期にバフチーンも<自己同一性は形成されていくものだ>と考えていましたが、その方向性は全く逆でした。
 「自我」について、フロイトは、その形成の「運動は幼児の完全な自我から発し、増大する抑圧を経て、自我充足を引き延ばすことができる成人の社会化された自我へ至る」と考えていました。
 いっぽうバフチーンにおいては反対に、「運動は非自我に発し、さまざまな異なる『言語』の習得を経て、その言語実践の総計として自己に至る。」「社会的評価はいわば自分および自分に行動の社会化であう。自分自身を意識しようとするとき、私はいわば他人の眼を通して自分をみようとする。」と述べています。自我、自己同一性というものが、社会を通して言語的に形成されるという考えはまさに、「自分は他人が見つけてくれる」ということなのではないでしょうか。(この辺りはすべて「ミハイール・バフチーンの世界」K・クラーク+M・ホルクイスト/川端香男里+鈴木晶・訳1990年、p262) 
 現在の心理学においてこの自己同一性の形成、アイデンティティ論がどのようなことになっているのかは、まったく専門外でわかりませんが、まあ、「自分」というものが社会的・言語的に、つまり「他人」によって形成されるというのは首肯できるのではないでしょうか。あんまり、「自分とは」とか「自分探し」に悩むとろくなことはないです。
 またアンリ・エランベルジェ(1905-1993)という精神医学史家は、デカルトの「自我」の出現について次のように書いています。
「どうして17世紀以前は『自我』という問題がほとんど注目されなかったのであろう。それは単なる言語学の問題でなかろうか。デカルトが「Cogito ergo sum」((われ)考うゆえに(われ)あり)といった時、力点は思考という行為と存在するという事実とにあった。しかし、これを彼がフランス語に直した時、「Je pense, donc je suis」(われ考う、ゆえにわれあり)となって、動詞の主語が明示され、『自我』という問題が出現した。」(「エランベルジェ著作集2」p83)
 「自我」という問題が比較的最近に出現というか発明されたということで、哲学の大テーマについての驚くべきコメントではないでしょうか。
 そういえば、能動態と受動態以外に中動態があって、「する、される」だけでなく「なる」といういいかたで、力に怯えて心ならずも従う状態を表現することで、「自己責任」というハラスメントに対抗するという議論が確かあるような気がします。(粗雑な理解ですみません。)そもそも能動態と受動態が想定する絶対的な主体性と責任は、キリスト教における責任の所在を明らかにする必要から発生して、そこから(デカルトのいう)「我」と「意志」という概念が発明されたということと、このエランベルジェの議論が重なってくるのではないでしょうか。
 今回はこのブログを始めたときに考えていたように、引用主体で書いてみました。 

 

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