ここちよさ


最近、以前より元気なんだなと思う。
そして、だからこそ元気じゃなかったときというのは、思考が気持ち悪かったなと思う。
ネチョネチョしている気がする。
多分、元気がないと自分の中にある何かに縋っていないと歩けないから、それに縋った結果ネチョネチョと何かに引っ付いた思考しか出来なくなるんだなと、思った。


うまく大事に出来なくてごめんね、と謝ったことがある。いま思えば、上手いとか下手とか、そんな話ではなかった。
ただわたしは、わたしのことが大事だっただけで、それは何かを否定することにはならないけれど、そういう言い回しをしないといけなかった。

本質的には、わたしはわたしの中にある道理や意思だけが大事で、そこに含まれてるから誰かや何かが大事なだけだ。当たり前の話だが、これを当たり前に感じることは当たり前ではない。

わたしはわたしの幸せを探すし、そのために努力をするだろう。それには、適した環境が必要だったし、適していない環境では正しい努力が出来なかった。正しい努力が出来ないと、心と体が壊れていくから、壊れない場所に行こうとするのは生きているのであれば当然だった。

構造と循環というのは、常によく出来ている。
愛という本能を正しく感じるためには、生き物として正常に機能していないといけない。


愛し愛されるためには、必要なのは正常な肉体であること。いまでは強い実感がある。

やることが決まれば、あとはそれをやるためにそのほかのことをできる範囲で整えてゆけばいい。余分な選択肢は雑念でしかない。視点はひとつでいい。歩き方も道の選択も、選べる中の最善をとる。ただひとつの視点によりそれを決める。
なんて、ここちよいのかしらね。

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