ロジカルマジカルちゃんべちゃん

こないだ、考えすぎバーで「論理的だね」と言われて心底驚いた。物事の優先順位や取捨選択はチャート式に設定していて、必要な条件などを挙げていく、みたいなことを話してたら、そんな風に表現された。

意外な評価でびっくり、というよりは、あまりされない評価だから嬉しかったんだけど、自己評価としてはこの上なく感情的だと思っていた。
だから、なんでなんだろう、と思った。

わたしは、悩むということは常に娯楽的だと感じていた。決断しなくても破滅せず、手に入れなくても耐えられて、解放されなくても受け入れられる。決断しなくていいほどのゆとりが、猶予があるのなら、悩むことは無益な時間だ。その、およそ苦しみの伴う行為をあえて能動的に行なっているのは、娯楽以外ならなんなのだろうか。

というのは、あらゆる感情そのものが娯楽だと思っているからこその思考の発展なのだけど。
喜怒哀楽、あらゆる痛苦、それらの刺激は人生における最大のエンタメだ。

なんてことを、考えすぎバーというタイトルの下にやってきた人に伝えるのは喧嘩を売っている気がしてしまったけど、悩みそのものを娯楽として適切に扱う分には罪はないと思っている。醍醐味ともいえる。


というか、悩むことを適切な時間以上楽しんだ結果として何かしらの破滅を呼んだのなら、それは悩みを貪ってしまった罰に他ならないと思っているから、逆説的に罪であると言うはなしになる。

いつだって、結果は出る。
経過した時間と共に。
決断してもしなくても、その結果としての次の瞬間が生まれ続けていく。それはずっと絶え間なく、あらゆるものは繋がって、結果を産み続ける。それらは拡散していくから、見えなくなることもあるだろうけど全てはなにかの結果だ。


なんてことを、思う。
足踏みをしている理由が、地べたを這う理由が、砂を噛む理由が、自分の判断以外なことにわたしは耐えられないから、こんな話の展開になる。


仮に、ここまでの話を部分的にでも論理的だとするのなら、論理というものを、わたしはわたしを黙らせるために使っている。際限なく湧き出る不安を、怒りを、恨みを、悲しみを、黙らせるために。

人を恨むとはどう言うことだろう?
人を許すとはどう言うことだろう?

その出来事を忘れないことは恨み続けていることになるだろうか?

わたしは、その出来事を思い出した時に、新鮮な感情が湧き出ることと定めている。まだ治っていない傷口から、鮮血が出るのならそれはまだ許していないだろう。まだ悲しんでいるだろう。まだ怒っているだろう。

でも、その気持ちを持ったまま、ずっと肩に力を入れ続けて生きていくのはすごく、すごく辛くて大変なんだ。心はどんどん強張って、動けなくなってしまう。そして息が詰まって、腐りゆく。

だから、自分を納得させることが必要なんだ。理由なんかなんでもいい、ただ、理由があったと思うことが必要なんだ。その理由に共感する必要なんかない、ただそこに理由があることだけが重要だ。

そうしたら、それをしたのが大事な人であればあるほど許せなかったことも、理由があると知れたら、大事な人であればあるほど自分を「仕方なかった」と宥められる。
傷口から流れ続けるこの喉を詰まらせる血を、怒りや悲しみや、そんなものに変換して息をしようとしなくてよくなる。ただそこにあるものを受け入れることができるようになる。

その理由たちをおかずに血を飲み込むことが出来なかったら、そこで初めて断絶を選べばいい。
シンプルな話だ。

理由が、大義名分が、納得が、やはり大事。

自分を納得させないといけないんだ。
相手がそうしてしまっても仕方ないと。
自分がそう思ってしまっても仕方ないと。
納得は、許しの形をしているね。

納得は諦めの形をしているだろうか。

でも、当たり前のことだ。全てを掴んで生きていくことはできないし、全てを掴んだまま何かを大事にすることはできない。
何かを大事にするために、たくさんのことを諦める必要があるんだよ。

わたしは、わたしの中の愛の形を守るために、歪んだ関係性を捨てることを選べたことがある。
いつだって、大事なものを決めておこう。
大事なものは、大事にすると決めて、大事にしないといけない。そうじゃないと、人は簡単に見失う。

つまり、なんだったかな。
わたしはあらゆる選択肢を感情で用意して、決断するときも感情だ。感情以外で選んだ選択肢を、いつか感情で後悔するなんて愚かすぎる。
欲しいもの、守りたいものを決めよう。他の全てはそこから辿ろう。そうしたら、道はもう決まってる。

なんてね。
自分の思考のルーツを辿るおはなしでした。



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