巡らせる夜
差別と、偏見、そこにはどれほどの隔たりがあるだろう。物理的に違う存在に対して、「あなたとわたしは違う」と思い、表明することについて、どれほどの罪があるだろう。
差別とは、優しさにもなりうる。
優しさとは、差別にもなりうる。
その境界をどれほど薄めようと、そこにどんな意味があるんだろう。
わたしは弱い側であり、弱さを振り翳し、優しさを搾取することもまた、できる側である。
弱さという暴力、強さという暴力。
それぞれが暴力であり、じゃんけんのような関係性がそこにある。
強さに立ち向かえるのは、弱さしかないんじゃないかとさえ、思う。弱さは、強さを味方につける。それは福祉のように。救いとは、そんな形をしているだろう。
その人のもつ弱さを笑ってやる時、そこにあるのは許しとも言える。存在を許すという表明ではないか?群れから追い出さないための措置とも言える場合があるんじゃないか?負目とは、当人が勝手に感じていることではないか?
おもう。おもう。おもう。
個人には、人の心がある。人という、ほとんど定型された既存の概念がある。それにどれほどの価値が、重さが、あるのか。
女は弱い。フィジカルとして。力仕事を男が受け持つ。差別とはなにか、適材適所とは、なんだろうか。
差別を糾弾するということは、同時にとてつもない差別を孕んでいる。笑って許してやる日は来ないだろう。慈愛という、およそ相対的下等生物に向ける感情により。
愛は誰かのためには存在しない。どこまでも利己的な欲望だ。利己的であればあるほどつよく、ふかく、鮮明だ。何も間違ってはいないだろう。責は常にひとつである。それは、それゆえに美しくなるだろう。
そんなことを巡らせる夜。誰もが間違い、誰もが正しく、愛は全ての救いのかたちをしている。それだけのこと。