結果、過程、事実


わたしと彼の主張は、概ね根本から異なる。

わたしは、わたしの知識がないからこそ自分で獲得してきた言葉や概念が好きだ。
抽象的で丸い言葉は、本質の形に沿わせることができる。
彼の言葉は角ばっていて、広い既存の概念の中をカラカラと回っている。

わたしは強く主観的で、彼は客観的だ。
わたしはわたしがどうしたいかの話しかしないし、彼はどうあるべきかの話をする。

いずれ到達する答え自体は、きっとそんなに変わらない。道筋が違うから、しばらくは交わらないだろうが。

何をどれだけ話しても、「話した」という柔らかい事実だけが降り積もるだけで、何にも解決したりしない。ある意味では、その事実だけが重要とも言えるのだけど。
解決することよりも「話した」という事実の方が、実は価値があるのだろう。

一朝一夕で解決するような問題を、わたしが今更解決方法が分からないという理由で頭を悩ませるわけがない。解決なんかするわけがない。
ひたすら、ひたすら、癒していくしかない。

言葉なんて、どれだけ無為なものなんだろう。
言葉を具体的に降ろしていけばいくほどに、他人事になっていく。既存の概念に宿るのは本物ではない。本物なんてものは、当人が頭を悩ませた結果以外には宿らない。その先でしか触れない。

どんな言葉を貰うよりも、本当は触れ合っていた方がいい。体温に触れて、そして、それができる距離にいること。その事実。

愛を囁くことの意味は「囁いた」事実に宿る。そのために言葉を織り上げたことにだけ、そのために声帯を震わせたことにだけ。その結果、その過程、それだけ。

言葉なんて曖昧なものを信じているんじゃなくて、わたしのために織り上げ震わせた、その能動性に至る感情を、信じてきたんだよ。

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