お気持ちあるうち死ねんくな〜い?

世の中の、自分で勝手に死んじまう奴らがなにを思ってるのかわたしはわからない。わたしは彼らと今のところ接点無く生きていて、芸能人が彼らの仲間入りになったところで、そこの気持ちに思いを馳せてなにか実感めていたものを感じられるような共感性には恵まれなかった。

どこまでも他人事の、冥福を祈った文章を読む。悼むことについて無知のまま、わずかながら授かった想像力と、わたしの中に眠る感覚で思い至ることがある。

死に至る際にも、激情のまま息を絶えることはあるんだろうか。

分からないけど、きっと、感情と希望はイコールなんだと思った。感情のもとになるような、そういうものはきっと、希望なんだと思った。

激情の中で死ねることを美しかろうと思った。物語のフィナーレを飾る、華々しいものになるだろうと。だけど、ほんとは、激情があるうちには起承転結の最後の一文字には至らないのだと思う。

希望は、喜びで、楽しさで、怒りで、悲しさなんだろう。そこにある、抗いや期待、それぞれの結果。あらゆる欲望ともいえる。そうして溢れた激情。

感情にある、能動と受動。

わたしは捨て去れないと思った。
捨て去ることを選べないと思った。
選ばないと思った。わたしがわたしと認知している存在は選ばないと思った。わたしがわたしをわたしと認知しているような遠さでもきっと抱えているだろうと思う。
わたしはわたしがわたしであるために希死念慮を抱えていて、その希死念慮こそが希望のあらわれでしかない。

そういう類の、絶望を依代にした、希望を、抱えていくしかないのかもしれない。辞められないのかもしれない。辿り着きたいのに、辿り着けなくて、辿り着けないのに、辿り着きたいと、願って祈って歩き続けることを。

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